2012年8月1日水曜日

河田小龍と室戸



河田小龍と室戸 
略記


          晩年の河田小龍

                     



                          平成二十一(2009)年晩夏
                          多 田  運

上段 室戸市教育委員会所蔵 絵馬下絵  下段 讃岐・金刀比羅宮所蔵 絵馬
 
 河田小龍が初めて室戸の地を訪れたのは嘉永五(1852)年二月、二十九歳の時であった。『室津に遊び捕鯨をみる』と小龍年譜に記されている。このころ津呂組・浮津組、両捕鯨組は藩営であり、藩の特命を得ての旅ではなかったか・・・!!
この七月、数奇な運命に翻弄された漂流民・中浜万次郎ことジョン万次郎がアメリカより帰国。藩命により万次郎の取調べに当る。後に坂本龍馬に大きな影響を与えたという『漂巽紀略《ひょうそんきりゃく》』取調書を十一月に草する。十二月、公務にて再び室戸へ東行する。翌嘉永六年正月に『漂巽紀略』を藩主に献上する。 又この頃、小龍は捕鯨について二つの漢詩を吟行、「捕鯢行」と「鯨鯢歌」を遺す。
 因みに、龍馬(20歳)が小龍(31歳)宅を訪問し、世界情勢を聞き学んだのは安政元(1854)年の年の暮れとも、翌安政二年の年初であったともいわれている。
 
 安政二(1855)年五月、小龍は讃岐の金刀比羅宮に絵馬「捕鯨図」を奉納している。この絵馬を依頼したのは、当時・津呂組鯨方頭元《とうもと》で元浦の奥宮守馬正好であり、正好は勢子船数隻を以て浦戸湾に赴き、小龍と門弟数名を迎えたと説話が遺っている。小龍、初来訪の『室津に遊び捕鯨をみる』嘉永五年二月は、既に絵馬奉納の打診をうけての訪問と思われるが過当であろうか。
 
 室戸市教育委員会所蔵の捕鯨絵馬下絵は、元、吉良川多田家・昌幸氏が所蔵していたものを、昭和五十八(1983)年に同委員会に寄贈したものであり、委員会は翌五十九年室戸市文化財に指定する。尚、同多田家には四枚の捕鯨絵図を所蔵されていたそうで、その内の一枚が現存のもの。散逸した三枚が誠に惜しまれる。
 この下絵について、当初小龍の署名落款が無く訝る者もいたが、島村泰吉先生が小龍の孫に当り、小龍の研究を重ねている宇高隨生氏・京都在住に教えを請うた。 平成二年七月三日、宇高氏は老体(当時87歳)を厭わず来訪し、捕鯨絵図を見てこれは間違いなく小龍の作品であると認定した。と喜びを記すと共に、絵馬下絵について『まさにこの絵は小龍の最も充実した年代の作品と考えられ、他の捕鯨関係絵画類に比べて卓越した力感溢れるものとなっている。小龍という優れた画家が、その充実期において現場に臨んで、写生した作品であることがこの絵の価値をいっそう高めているということができるだろう。』と泰吉先生は賞嘆を付している。
 
 拙子も数々の古式捕鯨絵図を見る機会に恵まれたが、小龍の作品に勝るものは無いと言って憚らない。下絵の中には作者の遊び心か、小龍と思われる人物が(画面中央・右下より四隻目の勢子船・艫《とも》の位置)描かれ、その姿は写生に徹した小龍の姿勢そのものである。
 後で記すが、下絵から完成作品に至る数々の素描画には、古式捕鯨そのものが凝縮されている。 山見番所にて鯨の来泳(発見)に始まり、勢子船が鯨を勢子(狩子)する。網船は鯨の前方に網を張る。網を被った鯨に羽差が銛を投ずる。頃を見計り下級羽差(若い)が手形を切る(鯨を船に繋ぐ行為)。持双船が櫓《やぐら》を組む。(仕留めた鯨を地方《じかた》(陸)に運ぶために持双柱に結えるため)地方には轆轤《ろくろ》が描かれるなど、古式捕鯨に魅せられた者にとっては、まさに垂涎の的である。
 文化庁は昭和五十四(1979)年五月、讃岐国琴平山鎮座の金刀比羅宮の境域に現存する金毘羅信仰、就中海上信仰を包含する〈金毘羅庶民信仰資料〉1725点を一括「重要有形文化財」として指定した。その中に『漁労絵馬』の部に小龍の絵馬が含まれ、宝物殿に大切に保存されている。
 
 奉納絵馬に記されている文字

   額縁上    奉献(横書) 一三《縦》五・二×一六《横》七・二cm
   額縁右    安政二稔夏五月吉祥日
   額縁左    土州 津呂組 鯨方
   画面右下   川田 維鶴《いかく》 (小龍の本名)

   裏書     奉掛土刕《としゅう》藩中
          奥宮守馬正好
          奥宮保馬正孝
         取次當處
          櫻屋玄兵衛
   
   ◆ 勇壮極まりない土佐津呂組の捕鯨を色鮮やかに描いたもの。
    唸り飛ぶ銛、勢子の鬨の声、鯨の咆哮が聞こえるような優れた
    貴重な絵馬。と称賛している。

 
 小龍は金刀比羅宮奉納絵馬が取持つ縁で、津呂組・浮津組、両捕鯨方関係者(鯨肉問屋等)との絆が深まり、太田鯨呑(栗太郎)や久保野珠山(繁馬)が安政三(1856)年に弟子入りする。愛弟子太田鯨呑の旅館を、詩に詠じた光景をもとに「鶴影楼」と命名した。「鶴影楼」(現在の太田旅館)主人、鯨呑こと太田栗太郎は捕鯨の問屋、扇屋の後裔である。寺田寅彦ゆかりの捕鯨絵巻の原所有者扇屋太三右衛門の家である。外に数人の弟子がいたと言われるが名前は分からない。又、明治期の網捕鯨の幹部・多田嘉七や津呂の前田稼一郎等とも交流があり、室戸の有力者を弟子に持ったことから、小龍は「初鰹を土佐で最初に食べるのは、殿様と自分だ」と言っていたそうである。また、鯨呑は鯨肉の上質なものや、初鰹などを手土産に小龍を訪れていたという(宇高氏談)。と、泰吉先生は「河田小龍と室戸」の中に書きとどめている。あらためて絆の深さを知る。 
 小龍の絵は今以て室戸の旧家を始め書画嗜好者宅には多く、家宝として大切に愛でられている。
  


                  


 この三枚の素描画は、高知県立美術館所蔵「捕鯨図下絵」紙本彩色、一巻、二七・○×五七二cmより抜粋したもの。



「鯨鯢十種略図」全図

   中下・克鯨  中上・赤頬鯨又は星鯨  右下・背美鯨  右上・座頭鯨

   左下・長須鯨  中上・槌鯨  中下・鰹鯨・ミンク  右上・鰯鯨

   左下・多加末津(高松)シャチ  中上・真甲鯨・マッコウ
三枚の素描画「捕鯨図下絵」には、遠く山見番所には白木綿旗を二枚掲げ、背美鯨二頭の来遊を告げている。そばには鯨の行動を勢子船に知らせる「採」が描かれている。


 勢子船六隻には白船(総指揮者)・赤船(副指揮者)や赤舳《みおし》船(舳先を赤く塗っている船)青舳船(舳船を青く・・・)・半菊模様と子持ち筋をあしらった極彩色(夫々役割在り)の勢子船・その艫廻りの造りを写している。
当時の鯨方頭元・奥宮家の家紋、丸に並び千鳥・下方に子持ち筋をあしらった大印旗、仕留めた鯨を地方に引き上げる轆轤まで添え,更に「鯨鯢十種略図」(四枚)として背美鯨を始め十種類の鯨が描かれている。
 又、早銛、中銛、大銛、樽銛など銛先の形状や寸法、銛が生鐡で造られている事を添書き銛綱の様子まで描き、掲げれば枚挙に暇が無い程に古式捕鯨の道具に始まり漁法をも伝え、まさに捕鯨絵物語である。 


           鯨骨(肩甲骨) 墨?  三○・五×四五・五cm  太田旅館所蔵                                              



















                    参考資料
                      河田小龍 幕末土佐ハイカラ画人
                      室戸史余話  島村泰吉 著
                      坂本龍馬写真集
                      金毘羅庶民信仰資料集(抜粋)

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