2012年8月1日水曜日

室戸の民話伝説 第27話「土佐日記」従者の愛          行当崎哀話

                                                                             絵 山本 清衣
  「土佐日記』従者の愛」

 平安時代の頃、土佐の国を治めていた国司が任期を終えて海路都へ帰ることになった。大津(現南国市)の港から外海に出た小舟は、土佐東部の沖合を京都に向って漕ぎ出た。羽根岬を経て室津沖に指し掛かった時、室戸岬が荒れ、この荒波は小舟では漕ぎ切れず、風波の静まりを待つことにした。国司の乗った舟と従者の乗った舟は室津の泊りで待機し、他の従者の乗った舟は奈良志津《ならし》(現奈良師)の入り江で風待ちをすることになった。そのころの奈良志津は浮津浦より人家が多かったそうな。従者達は狭い舟から解放されたような気持ちで陸に上がった。従者五人の中には、京生まれの眉目秀麗《びもくしゅうれい》の若者がいた。この若者と奈良志津のある家の娘とが知合いとなった。その日の夜、京男と海辺で育った娘が結ばれた。
 三日後、国司の舟を追って、若者の乗った舟は奈良志津を後にした。それから十ヶ月ほどが経って、一夜の契りを交わした娘が男の子を生んだ。この子が十歳になると神童と云われるほどになった。希に見る利口な子供を奈良志津で漁師として一生を埋めさすには忍びない、と親戚縁者が金を出し合って京都の父の許へ旅立ちさせた。京都に着いた子供は克苦勉励して、ひとかどの学者となって、親類縁者の期待に応え、母親にも孝養を尽くした、という。
     
    行当崎哀話 
 
 今から百三十年くらい前、江戸時代も終りをつげようとしていた頃の話しである。讃岐の国(香川県)生まれで、若いイケメンの坊さんが西寺(金剛頂寺)に弟子入りして、修行にはげんでいた。ある日、このお寺の檀家で、部落では旧家で由緒ある家に法事があり、住職のお供をした。客間に通され、間も無く歳の頃なら一八、九才の美しい娘がお茶を捧げて持ってきた。イケメンの坊さんと娘は運命的な出会いであった。この出会いをさかいに、坊さんは格別用事もないのに、娘の家の周りをうろつくようになった。生まれて初めて、愛する人への思慕のなせる行為であろう、数日が経った。若い坊さんの一念が通じたのか、娘に逢う事が出来た。そうして二度三度と逢瀬を重ねあっているうちに、相思相愛の仲となり、人目を忍んで逢っていた。忍び逢いも度重なれば、いつかは人の目に。何しろ狭い土地のことだ。お寺の若い坊さんと、名家の娘との仲は部落中に知れ渡った。そして間も無く、住職の耳にもはいった。
 若い修行僧が最も畏れていた娘御との中を、住職から訓戒を受ける羽目になった。住職の前に呼び出された修行僧に向って、住職が仏に仕える僧侶とて人間であるから「人を好きになってはいけないという法はないが」と前置きして「戒律厳しい僧侶の身であり、それにまだ若い修業中の者が色恋沙汰とは以ての外である。僧として守らなければ成らない規律を破ることは厳に慎まなければならない」と訓戒をたれた。この住職のもっともな言葉に、坊さんは意気銷沈してただ恐れ入るばかりであった。一方、娘御の方も親から注意されていた。「修業中の坊さんの将来を誤らせるようなことをしてはいけないから、これからは交際を止めるように」と強く言い渡された。
 こうして二人のことが表面化してからは、坊さんの方も娘御の方も監視が厳しくなって、逢うこともままにならなくなった。末は夫婦になろうと固く誓い合っていた二人にとっては、最悪の事態となった。還俗《げんぞく》してでも夫婦になろうという考えも及びつかない坊さんは、このままだと到底この世では結ばれないから、あの世とやらで一緒になろうと涙ながらに娘と語り合って、実らぬ恋を嘆きつつ行当岬の巌頭から抱き合って室戸の夜の海に身を投げた。恋愛に自由のない、封建時代の哀しい恋の結末であった。

                          文 津 室  儿

          




0 件のコメント:

コメントを投稿