2011年7月29日金曜日

  寛永の室津古港 1624〜1643

         

室 津 古 港 略 記


                              
                      
                      室戸市教育委員会 調査
                                 植 松 棟 造                                  久保田   博
         

                     

                                    

                                            平成22年(2010)晩夏
                                                  写  多 田  運








        表示の通り、室津古港前、元和時代(1615)以前の室津河口地形想像図




            上記二枚の室津古港図は、旧港番(港奉行)久保野家蔵

 
 扨、当「寛永の室津古港」植松棟造・久保田博両氏の調査が、いつ行われたのか調査日の記載がなく不明である。しかし、小冊子であるが素晴らしい調査書を遺されていた事に敬意を表したい。この調査書にも記述されているように、野中兼山・一木権兵衛両先人の前に、「最蔵坊こと小笠原一學」が、室津港の基礎的工事をすべて完成していたことに驚きを隠せない。最蔵坊が津呂・室津港の開鑿に当った元和元年より、約四百年に亘る恩恵に浴した室戸市民は、今一度最蔵坊・小笠原一學を顕彰する事が大切であると信じてやまない。
 なお、調査書を写に当って、読み下しは行わず原本に忠実に一つ一つの字句を丹念に拾い上げた、が誤字脱字が多々有ろうこと、平にご容赦ください。


     一、 寛永の古港の図について
 
 かつて室津港の港番であった久保野家(旧姓・久保)に伝わる多くの記録を調べていると、古い室津港の図面が五部出てきた。その中の一部が一木権兵衛が延宝七年(1679)に港を完成した以前の古港の図である。それが意外に大きなものであるので、先ず驚かされた。私どもわここに改めて、これまで調べて来たものを考え直して見たくなった。

     二、 延宝の新港以前の港番について
  
 久保野家に伝わる港番の記録によると、「承應《じょうおう》二年(1653~延宝七年より26年前)祖父茂兵衛湊《みなと》奉行被仰付御書付写左之通」と前書きして急度《さと》申遺候、室戸湊口船之出入掃除等改之儀、室戸村九右衛門半介加《が》右衛門に申付候得共、九右衛門は湊口より程遠罷居候故、其方ニ半介加湊奉行ニ申付候為御給《たまえ》湊口ニ在之最蔵坊(小笠原一學)屋敷三十代其方ニ遣候。
向後半介同前ニ湊口船之出入、米之改、湊之石垣くづれ申立、船之出入ニ構石掛船之者ニ申付とらせ可申候。崩れ石垣も水主之手ニ相候所は繕わせ可申候。其方諸法度等之儀、半介方ニ書付可在之候間、其分可相心得者也。
                            小倉弥右衛門・事判
 承應二年(1653)八月二日
                            岡村  平次・事判

     室戸茂兵との(殿)                          と述べられている。これによって当時の港は既に港番(湊奉行)を置いて諸事務を執らなくてはならぬ程、港も大きく、船の出入りも相当あったものと頷かざるを得ない。と同時に当時は室戸湊と呼んでいた事も明らかである。

     三、 津呂湊・室津湊のサラヱ(浚《さら》え)普請並に室津湊の堀次請願について
 
 土佐藩主豊昌《とよまさ》(第四代藩主)は寛文十三年(1673ーこの年9月21日延宝と改元)四月八日付けを以て前二つの要件をひっさげて、幕府へ港普請の請願をしている。これは直ちに許可されたが、その請願書には次のように記載されている。
 一、土佐国、安喜郡室戸崎ト申ス所ニ、津呂・室津ト申ス二ヶ所ニ湊御座候。此ノ間二十六町御座候。右両湊ハ前々ノ深サ干潮ニ七・八尺御座候。然ルニ、近年埋リ只今ハ干潮四・五尺。或ハ二・三尺ニ罷成候故、船ノ出入リ難シク成候間・埋リ申分浚ヱ普請仕《つかまつ》リ度奉存候。則チ絵図、別紙ニ差上申候。右両所ノ港浚ヱ、普請仕候テモ、近辺ニ湊無御座ニ付、彼ノ両湊ヘ乗リ掛ケ申ス国中ノ船数多ツトヒ候節ハ、右両湊ニ納リ申サズ、難風ニモ沖合ニ船掛リシ或ハ、風ニ任セテ走リ、度々破損仕ルテイニ御座候間、室津ノ湊浚ヱ、普請ノ序デニ、右ノ絵図ニ記シ候通リ、横三十四間、奥エ五十間堀次、此ノ分並ニ石垣ヲ築キ申度《たく》、存ジ奉候。  以上
  寛文十三年四月八日                松平土佐守(豊昌)

 この寛文十三年は、実際に一木権兵衛が藩命室津港の開鑿《かいさく》を始めた延宝五年三月より、先立つ事四年前の事である。室津港は寛永七年(1630)七月藩命を受けて最蔵坊によって開鑿に着手され、翌八年六月に一応完成したが、その後数回普請も加えられている。津呂港は同じ最蔵坊によって元和四年(1618)試掘せられたとも伝えられるが、野中兼山の決意の下に開鑿に着工したのは寛文元年(1661)であり、その完成は同年三月二十八日であった。
 ここに室津港の堀次を付加工事としているものの、津呂・室津両港の浚え普請をまとめて申請している事から考えると、室津の港(旧港)も相当な規模を持っていたものと、想像されるのである。なお、幕府の許可は得たものの、天変地変のためその着工は、延宝五年(1677)三月迄延期されている。

     四、室戸崎付近に良港の必要性

 山内一豊の新封土佐国への入国は慶長六年(1601)正月二日であったが、彼は難波から舟を連ねて来たにもかかわらず、室戸崎の波濤を避けて、甲浦で上陸、かの野根山十里の難路をえらんでいる。
 一豊以来、歴代の藩主が参勤交代のため江戸出府の途中、浦戸を出て土佐の海を渡航せられる折りは、東寺・津寺・西寺の三山は、何れも藩主の為に海上の安全を祈祷し、寺舟を仕立てて、沖に漕ぎ出し御座船を迎えた。その節、三山の院主や住職は御座船に召され、海上の安穏の御守札を差上げるのが習わしとさえなっていた。
慶長・元和・寛永の頃、一豊・忠義が室戸崎を通過の際、その座船を室津ミナトへ船繋りした事も、記録に示される所である。
 元和元年(1615)大阪夏の陣の時、忠義は徳川家康のため忠勤を盡そうとして出陣する事に意を決したが、室戸岬迂回が困難なのを察し、野根山越えに駒を進め、甲浦にその軍兵を結果して、この港から出帆しようとしたが、折悪しく五月五日から十一日まで風浪のため、出船をさえぎられ、切歯扼腕《せっしやくわん》(感情を抑えきれずに甚だしく憤り残念がること。)あたら海上を見つめるのみであった。かくして可惜《あたら》(惜しむ)五月七日の大阪落城にその勇姿を遂に見せる事が出来なかった。
 その後参勤交代のため、藩主の出府・下向が頻繁に行われ、更に平和産業が発達するにつれて、船舶を甲浦から難波に廻送するについて、途中室戸崎付近に避難港を設ける必要を痛感せざるを得なくなった。
 元和偃武《げんなえんぶ》(元和の戦争がおさまる事)の後、早くも東寺の住職最蔵坊によって実現を見、室津港の修築が目論まれた事が、こうした時代の必然的な要求であった。

    

    五、室戸古港以前の土地の姿について

 室津港のある現位置は昔は池であった。その口の一部が海に続き、それが室津の古い舟掛かり場の姿であったと考えられる。天正の地検帳(室戸の地検は恐らく天正十五年「1587」と考えられる)を見ると、次の記録が先ず目にうつる。
  同じ(八王子前の事)池ノマワリ         同村(室津村の事)
 一ゝ(所の事)壱反二十代《だい》 サンハク久アレ     同じ(室津分の事)
  同じ 池ノフチ                 同村 三郎二郎 扣《ひかえ》
 一ゝ 十代下                   同じ
  同じノ東                    同村 藤二郎  扣
 一ゝ 十五代下                  同じ
  同じノ東                    同村 右京   扣
 一ゝ 十代  出・中 六代             同じ
  同じノ南                    同村 源三郎  扣
 一ゝ 十五代 出・下 三代             同じ
  同じノ東                    同村 三郎左衛門扣
 一ゝ十代   出・下 二代             同じ
  同じノ東                    同村 源三郎  扣
 一ゝ十五代  出・下 五代四分            同じ
   同じノ東                      同村 兵部進  扣
 一ゝ五代   出・下 二代             同じ
  同じノ東                            同村 神五郎  扣                          
 一ゝ五代   出・下 五代             同じ
  同じノ南                     同村  藤二郎   扣
   一ゝ十五代   出・下 四代              同じ
  同じノ東                     同村 市衛門    扣 
 一ゝ十五代   出・下 三代              同じ
 この記載によると、これらに囲まれた池は相当広い面積を持ち、随分古い時代から船掛かりであり、港の開鑿には有利な地形であった様である。

     六、室津古港の普請遂に実現

 津呂の古い港が室戸崎付近において難破する人々を救済しようとする最蔵坊の悲願によって、その浄財をもって造られていたものが、一応その形態を整えたのは元和四年(1618)の事である。藩主忠義から最蔵坊宛に送られてきた書簡には次の通り述べられている。
   さと(急度)申遣候
 一、 津呂湊堀被申候事、船より小宛勧進を可被仕候事
 一、 津呂権現之宮并居屋敷共其の方へ申附け候間、上下之船祈念可被仕候事
 一、 足摺之堂建立、思々ニ勧進可被候事
 一、 其方、足摺通いの時、伝馬一疋・人足弐人宿送之儀申附候、船にて被參候共、右同     前たるべく候事
     何も右之通申附候間可有其心得候者也

  元和四年十一月二十二日                      忠義 (華押)

   最蔵坊 

                                 〔山内家文書〕
 「上下之船祈祷」すべきときは、単に藩公の船にとどまらず、ここを通過する一般の船の安穏を祈るようとの意向であると思われる。津呂の港と並んで室津の港を修築する事も、早くより国政にたずさわる人々は考慮されていた事であった。
忠義の在任中(52年間)、室津の港は前後四回に亘って開鑿が行われている様である。寛永七・八年の普請・寛永十七年の普請・寛永十九年・二十年頃の普請・承應元年の普請等がそれである。

     (イ) 寛永七・八年の普請
 最初の室津港の普請は寛永七年(1630)七月に着手し、翌八年六月に至って一応その工事を終え、大要一ヶ年の日月を要している。そして、その主宰は最蔵坊であった。彼は東寺の建立を成就した後、麓の津呂に下って、此処で津呂の港を仕上げたのは前述の元和四年十一月であった。
 忠義はその功績を見るや、次いで室津港の「港掘」を考慮し、彼を招いて室津港に関する子細を聞き、室津に居住を与えて、専心この仕事に当らしめた。この事を久保野家の港番の記録には所右衛門・覚えとして、
 扨《さて》東寺成就、其後津呂へ參、権現之西地三反三拾代被下居住仕申の処、室津港口・算用ば へ・之儀御尋被為成度と御意由にて、御城椿へ被為召寄、委細御尋に相成、即銀子弐枚拝 領仕、其上向後何方へ用事に付參共、伝馬壱疋人足弐人之御珠印被為仰付候。それより室 津に罷り越し、又室津にて居鋪(屋敷)三拾代御拝領仕申候。扨算用ばへ上なみを割、内 堀を堀申し、其後室津御蔵にて米納升三斗入り、弐拾五俵被為仰付候御事。
室津港の築港事業中、最も力の注がれたのは「算用ばへ」の除去であった。
 寛永八年の夏、工事は一応竣工したが、その時、吉日を卜《うらない》して、 忠義を迎えて「御舟
入りの儀」を執り行っている。六月十一日付、忠義から小倉少助に送った消息文によると、
 室津船入之儀見及び候て、最蔵坊と令相談候処、湊口之立石手伝い五・六人相渡し置候  者、割り候て見度候由、最蔵坊被申候に付、其通にいたし候へば、右之大石三分の一取退 け、残所は八つに割り砕き被申候由、奇特成事共に候。弥《いや》、不残可令首尾と致満足候。
これらによって考えて見ても可成り大きな港であった事が、想像されるわけである。
 ここに私共の注意を喚起する事は、 当時の工事中に使用した礎石の発見ある。昭和七年(1932)七月三十一日の土陽新聞(高知新聞の前身)は、次の事を報じている。
  昭和七年七月三十日、室津港の改築工事中、旧築堤の巨石を取除いている作業の最中、 偶然発見された自然石は、二尺七寸角、厚さ五寸の大きさの物で、表面に刻んだ文字は  「寛永七年七月吉日」と判読されたが、これは正しく最蔵坊が室津港を始めた時の礎石で あると、推定されるものである。
この「寛永七年七月吉日」と刻まれた文字と、その発見された昭和七年七月三十日、これは洵《まこと》に奇しき因縁である。只今、願船寺の境内に上人の墓石と並べて立っているのも、なつかしい。

     (ロ) 寛永十七年(1640)の普請
 港番の記録(前述)によると、「右の立石書付の写、祖父所右衛門自筆に事記《じき》(事件を中心にして書いたもの)有之、故写置者也」と後書きをして
   寛永十七年庚辰年           国之奉行   野 中  主 計(兼山)
                             安田 四郎左衛門
   奉掘営御湊成就所                  片岡 加衛門
           国守源朝臣松平土佐守侍従   忠義
                  奉行      祖父江 久右衛門
と記録されている。そして昭和五年に右を記録した碑が、一木神社の下の境内に建てられている。これによって見ると、この年にも普請が行われたものと推定される。右の所右衛門は大体一木権兵衛時代の港番である。

     (ハ)寛永二十年(1643)の港普請
 寛永二十年四月、藩主忠義は江戸へ参勤交代のため、高知を出発し、土佐の海を渡っていたが、十一日の夜中、室津沖にさしかかって天候が急変し、辛うじて室津の港に船を入れてと云う事件が勃発した。その時忠義は筆をとって、野中兼山・小倉少助等に宛てて、次のような親書をとばしている。
 態次・飛脚を以て申し遣わし候。依我我事、是夜玄ノ刻、室津至湊口令着船候。供船共は、悉疾不残相着湊へ入候ぎ。乗船は沖にふりかかり有之候へ共、天気悪候に付、丑に湊入、引入させ候。もはや、天気能成候間、今夜中に可令出船條、二三日中に大阪へ可令上着間、大慶此事に候。特又、當湊初に見候而潰謄候。当津に湊無之候てば、不自由所に存候に一段之湊と令存候。当津普請可申付と存候。関太夫(樋口)指下候砌、委々可申遺候。取急
早々申遣候。謹言
  卯月十二日(寛永二十年)
                                   忠義(華押)
    野 中  主 計  殿
    安田 四郎左衛門  殿
    片岡 加左衛門   殿
    小 倉  少 助  殿                  〔郡方月目録三〕
 この後、果たして工事が起こされたかどうかは、文書に徽《しる》すべきものがない。併せしながら、津呂室津の両港に修築が少しずつ継けられたと云う事は、文書にも示されている。
 然らば先年室津湊堀申候時も、御公儀へ得御意申事も無之、其後御国廻之御上使覧被成候 得共、一段之儀と被仰成事も無之候。云々
これは慶安三年(1650)十一月二十八日附、野中兼山より、高島孫右衛門へ出した書状に見えるものである。

     (ニ) 承應元年(1652)の港普請
 承應元年三月から始まった様だが、いつ終ったか明らかでないが、あまり大規模な工事ではない様である。忠義は参勤交代のため江戸へ上府、この年七月帰国し、九日に甲浦に着船したが、その帰国の前、三月末に江戸から土佐へ送った親書の中に、次のように見えている。猶以《なおもって》津呂・室津普請被申付候よし承候。彌不令油断様可被申付候。右之あかりに手結湊も被申付候よし尤に候。是は少々之事之よし申候間、手間入申ましきと存候。
  三月二十七日(承應元年のこと)                  忠義 (華押)
    野 中  主 計  殿 (以下四名連名)            〔山内家文書〕

     七、 以上のむすび

 右のように記述してくると、右の港普請の中では最蔵坊の主宰した、寛永七・八年の開鑿が一番大きな工事であり、その工事で古港は一応出来上がっているものと見てよい。この寛永の古港の図には、いつ描かれたとの記入がない。併しながら承應二年の室津古港の時代から、相伝えて来た由緒深い港番(港奉行)の家の書類の中から出て来た事に、事実として信ずべきものがあると思う。
 なお、古港と名付けられている所から考えて、或いは一木権兵衛が普請して今猶《こんゆう》その面影を存している。新港の完成して後のものではないかと一応考えられるが、その文字の墨色も他の部分より薄く、筆跡も亦異なっているので、後からの記入と思われる。更に前述したような記録も裏付けられている事などから、綜合して考えると、洵にその意義も深い次第である。私どもはこの図に接して、その規模の大きいのに先ず一驚する。室戸の港は当初、最蔵坊がつくったと聞き伝えて居りながら、その史実や、その規模等が不明瞭であった為の、とかくその偉業は忘れがちであった。ここにこの寛永の古港の図を充分に玩味《がんみ》し、その史実を深く考え、改めて最蔵坊(最勝上人・俗名小笠原一學)を考え直さなくてはならない。幸いに上人の御霊は、港の上、願船寺に安んじられている。

     八、 最蔵坊について

 最蔵坊の事は、世間に色々と語り継がれているが、その根拠となるものは前述の港番の記録(表紙が破損して、この書名がわからないから、私はこう呼ぶ事にしている)である。私は直接その記録の中の「所右衛門・覚」を書き出して見る事とする。
 一 最蔵坊・本国石州之住人、小笠原庄(之!)三郎一家、小笠原一學と申、知行三千石   拝領仕居申由、然所(念書か)に、主人安芸の森殿(安芸ー毛利秀元)・治部少輔    (石田三成)陣より以来(慶長五年九月十五日の関ヶ原の合戦)・御地行被召上候故、   廻国に成、六十六部(六十六部は六分と云われ、六十六部廻国聖のことを指す。これ   は、日本全国六十六カ国を巡礼し、一国一カ所の霊場に法華経を一部ずつ納める宗教   者)之法華経を納廻り申、折節東寺岩屋に居留り、東寺建立仕申候。其節忠義公様御
   参詣被為遊、上人之御小袖一重、銀の御煙管《きせる》二本被為遣候。・・・・・・
更に「同・覚」には最勝上人の示寂の前後の事を、次のような手紙文で述べている。
 一 慶安元年(1648)九月十二日、東寺塔堂入仏に付、小倉庄助御越に成候所、殿様より銀弐枚上人へ被為下、拘又最蔵坊東寺へ參、山ノ口を明《あけ》け、女を入申様こと御意被為成之趣、庄助より被仰渡候。然共、上人は同年九月五日に病死仕候故、銀子戻り申候。其後又殿様御意には、一度上人へ遣し申銀子、上人石塔を仕遣候様にと少助殿へ御意被為成候旨、於御前来正長善慥に承由にて候得共、其御何之御沙汰も無御座候。以上
                               所  右 衛 門
   延宝六年(1678)午四月 日
    葛目 与次右衛門  殿

 右の書簡の中に、最初小倉庄助とあり、中頃にも庄助、終りの方に少助殿と出ているが、これは共に小倉少助同一人の事である。

                                                 以上で終り。
                            無断転載禁止

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