2011年7月20日水曜日

 香芸紀行「室戸関係分」植木枝盛著

     

     植木枝盛 著
  
  「香芸紀行」(室戸関係分)

 土陽新聞連載(明治二十二「1890」年)









平成十九2007年十月五日
 島村泰吉先生 香芸紀行コピーを頂く
  平成二十三2011年 初夏 書起す 

明治二十二年四月七日~四月三十日 遊説
     香芸紀行
四月十四日、晴 午前十時
 奈半利有志者数名及び吉良川より案内の為め来り居られたる両三名の士と馬を以って発す。村外れの某漁村少しく以前に火災に罹《かか》り数十戸挙《こぞ》って灰燼《かいじん》と為《な》り、此の頃に至り、わずかに仮小舎《かりごや》を構える者もあれど、其の総体には只々、茫々として焼け、瓦焼け土の存するを見るのみ。惨憺《さんたん》たる景状深く睇視《ていし》するに忍びず、やや行く路、甚《はなは》だ陋悪《ろうあく》、幾《ほと》んど人道に非《あら》ざる也。而《しか》して右傍海際《うぼうかいさい》大石𩜙《おお》し、石工来り、其の材を仕成《しな》す者少なからず。彼の大島岬なる海南義烈碑《かいなんぎれつひ》の如きも此處《ここ》より、其の石を運び行たるものなりと云う。加領郷を経、中山を踰《こ》ゆ碕嶇《きく》言うべからず。
  峰上《ほうじょう》、一茶店に小休し、蕎麦《そば》の粉の饅頭と甘蔗《いも》の粉の餅子《もち》とを茹《くら》う。粗なりと雖《いえど》も、意外に美味を覚ふ。身を労したゐが故なるべし。先哲《せんてつ》某の言葉に、「美《よ》からざる食物も身を働かす者の口に入るときは変じて美味と為る。美き食物と雖《いえど》も、怠惰に日を送る人の舌に至ときは乍《たちま》ちにして其の味を喪《うしな》ふ」とあり。
貧なりと雖《いえども》も働く者は常に美《よ》きものを食うべし。富《と》めりと雖《いえども》も懶《ものう》き徒は生涯美《よ》きものを食わざるべし。いづれが幸《さいわ》いなるか孰《いずれ》が不幸なるぞ、上より下へ之《こ》の字を幾個も累書《るいしょ》したる如《ごと》き坂路を下り纔《わず》かに坦途《たんと》に就《つく》く。之を聞く羽根村の民衆斯《こ》の道を山下《さんか》、海岸に付け換《か》えんものと擬意《ぎい》し、已《すでに》に地方税の補助を仰ぐこととなりて、手始めを致し居れりと左《さ》もありぬべし。路傍松樹《ろぼうしょうじゅ》へ縄を綯《な》い、草鞋《わらじ》を釣るし、付木《つけぎ》へ●●●●黒丸四個を書きて、之を其の傍に挿《はさ》み、又、其の傍へ一個の竹の筒を搖《ぶら》ら下げあるを見る。此の如きもの比々として甚だ多し。黒丸四個は此の草鞋《わらじ》一足代四厘と云うの印しにて、傍らの竹筒は即ち、其の代金を入れ置く為のものなりとぞ。之を無言の売買と称すべし。黙々《もくもく》の取引と称すべし。人若《も》し其の竹の筒を傾けて、中なる銭を掠《かす》めんとすれば、甚だ容易に之を為すことを得《う》べきなれども、其れは又、此の如きことを為す者なしと云う。
 羽根を過ぎ、鑑雄神社《かがみおじんじゃ》に謁《えつ》す。義士、岡村十兵衛を祀《まつ》る所なり。十兵衛姓は岡村。天和《てんな》年間、同處《どうしょ》にて分一役《ぶんいちやく》を勤む。    
 孔子所謂殺身成仁《こうしいわゆるさっしんせいじん》の人なり。祠側《しそく》に自然石の一碑を建つ面《おもて》に刻するに、曾《かつ》て、藩主山内豊照《とよてる》公の御作《ぎょさく》せられたる詩一首を以てす。
曰《いは》く。
人間無他義兼仁。 有司勲鑑任此人
旅客更慕報国志義名長存子孫身。
土民仰望神奴在。 路畔古墳拂無塵不命勝於受命。 忠魂赫々彬々。
蓋《けだ》し公、弘化年間、東部を巡閲《じゅんえつ》せられ、此地に至られし時、右、十兵衛の墓を視て、愕然《がくぜん》として作られたるものなりとぞ。
而《しこ》して碑背又刻《ひはいまたこく》するに左の文を以てす。
 碑面係故国守山内養徳公東巡所一レ題、
 按岡村十兵衛、故羽根浦吏也。貞享元年饑、 為請守廩浦距本府往復数日程、 日俟命下豈忍視殍亡乎、罪吾 當之、乃壇発以救、竟自刃血死、實 七月十九日夜也、土人號哭相率執紼者数 百人、歳時祀尊不襄、明治五年建祠千 墓側鑑雄神社客歳六月権令按東 部、過其祠焉、為之滄然追回養
 徳公当時事、以謂此詩公褒崇之典、宣
 表諸石以慰神於地下也、土之土民 聞之欣然相與獻力拮据賛其成者十 一名、嘱正路其事以書之碑裏 、於之乎令公為世道之擧與土人 懐徳之志亦以不朽云
維時明治八年十一月 奥宮正路撰文並書
祠《ほこら》は路傍の平地に至り、話を聞く初時には只々《ただただ》
         俗名 岡村十兵衛
  林月宋祝信士  藤原
    貞享元年七月十九日卒
           行年五十一歳
と刻する一つの墓あり、而《しこ》して春夏秋冬何時《いつ》と云うこともなく、誰よりとも知れず香花を備えありて掃除も行届いた其の墓の上には、一小《いっしょ》沙塵《しゃじん》も止まらず。いかにも其の土《と》の人、徳を懐《した》ふの厚きを察するに足りし趣《おもむき》なるが、明治四年未《ひつじ》三月有志者より上請《じょうせい》する所ありて、神號《しんごう》を付することを許され翌五年祠を建て鑑雄神社を號することになり、更に又、上文記する如きの石碑を其の側《かたわら》に建樹したりとぞ。
 午后二時 吉良川に抵《いた》る。同地諸氏の為めに導かれ某羈館《きかん》に投ず。良《やや》ありて、本日開く所の演説会に臨む。余二時間半ばかりを以て
二題を演説す。屋狭くして聴衆を容るゝこと四百より多き能《あた》わず。因《よ》って場外に溢るゝ者も多くありたり。夜懇親《こんしん》会を開く。列席する者、七十五名、スピーチの取《とり》為替《かわせ》あり。

四月十五日 風雨倶《とも》に猛
 余猶《よな》月発程《はってい》せんとす。諸士曰《いわ》く、今日の如き天気にては此の邊《へん》、海濱の路復《ま》た歩《ほ》すべからず。雨、上より降るのみならば可《か》なれども、雨、下より突くが故に縱《たと》い、簔笠《みのがさ》を着けるも行き難《がた》しと竟《つい》に逗住《とうじゅう》することになしぬ。此の日、岡氏に請い、岡村十兵衛の事歴を記する書類を借覧す。十兵衛の人となり轉《うた》た感心すべし。仍《よっ》て余亦《よまた》十兵衛の伝を作る。今、之を左に掲《かか》ぐべし。
○岡村十兵衛は天和貞享の頃、土佐国安芸郡羽根浦にて分一役を勤めたる者なり。初め延宝八年より度々洪水あり。諸仕成《しょしなし》。材木保佐《ぼさ》木等流失するもの測《はか》られず。民衆困弊《こんぺい》一方ならず。当時御蔵米と称する物、七百四十余石儲《たくわえ》えあれども、左りとて、代銀立用《だいぎんりつよう》の仕途《しと》なきゆえ、之を仰《あお》ぐこととてもできず。大いに当惑いたし居りしに、天和元年に至り十兵衛前吏に交代して高知より此の地に来たり。分一役を勤むることと成りしかば(当時、分一役は大概《たいがい》一年々々に交代し居たるなり)十兵衛も備《つぶ》さに目下の状況を観察して惻隠《そくいん》の心に禁《た》えず。何とか救恤《きゅうじゅつ》の道を立てんものと焦心苦慮いたし、其の為め同郷黒見山の内、松木山、御留山、一個處公儀へ願い出でしに異儀なく御聴届を得たるを幸い、十兵衛は其の手配をなして天和二年戌《いぬ》の六月朔日《さくじつ》より、杣日雇いを右黒見山に送り遣わし、明年、亥《い》の歳四月迄を限り、材木を仕成させしに、松材五萬五千三百六十餘《よ》、保佐木《ぼさぎ》拾八萬四千三百十二束《そく》を得たり。因《よ》って之を上方《かみがた》に売出《い》だし、又は地売りと為したるに高金八十七貫六百八十四匁《もんめ》七分《ぶん》あり、右の内四十五貫二百九十匁九分は杣日雇の入目《いりめ》とし、残金四百二貫三百九十三匁七分を徳用銀と為し、其れを御蔵米立用に為し下せしかば、地中人民始めて飢渇《きかつ》の難を免れ、其れよりは、転じて溝壑《こうかく》に陥る者もなく、散じて、四方に之《ゆ》く者もなく、其の欣躍《きんてき》帝口ならず。誰一人として、十兵衛の功を謝せざる者なかりしとぞ、斯くして又、貞享元年子《ね》の歳と為りしに、不幸なることには前年にも勝る大凶年にて、穀物一切稔らず。加うるに漁事とても之なく、郷浦共、困頓窮迫《こんとんきゅうはく》一方《かた》ならず。渡世向《とせいむき》更に立行かず。日増しに飢餓が逼り、桑を伐り、屋を折くも及ぶべからず。朝に斃《たお》れ、夕死し、其の惨状実に目すべからず。之に因り、十兵衛よりは早々御蔵米相開き、御救助米仕度《みきゅうじょまいつかまつりたく》と公儀へ御伺《おんうかが》ひ申上げたるに、御詮議《おんせんぎ》急速にはこばず、甚《はなは》だ延日となるに付け、老者となく、壮者となく、夜に日に餓死する者愈々《いよいよ》多く、続々鬼籍に登る者あるを見て、十兵衛は独り自から以為《おもえ》らく「郷浦人民旦夕《たんせき》に其の生命を失う今日の場合、徒《いたずら》に米蔵の番人致し居りては実に当浦役相勤めたる甲斐もなきことなり。寧《むし》ろ我身は如何なる御詮議に遭ふとも一己《いっこ》の考えを以て、急々に此の御蔵米を取出し、目前飢餓に逼りて猶、未だ死せざる者を賑救《しんきゅう》するに若《し》かず」と遂《つい》に藩命の下るを待たず、自ら米蔵を開き、それぞれ郷浦人民に配布したりしに扨《さ》ても死あるを期して生あるを期せざりし。土地の民衆今にも絶えなんとする命脈を繋《つな》ぎ留まることを得て、幸いに蘇息《そそく》することと成りしかば、誠に命の恩人なる哉、最早死ありて、生なかりしものを唯だ岡村殿の在りたればこそ、無き所の命をも拾いしなれ、南無十兵衛様と伏し拝まぬ者も無かりしほどなりしが、爰《ここ》に十兵衛は公儀の御下知《みげち》無《これ》之《なき》を一己《いっこ》の料簡《りょうけん》を以て米蔵を開き、取扱い致したる段、其の罪軽きに非《あ》らずとて、厳しく御咎申付《おとがめもうしつ》けられしは、是れ亦、是非もなき次第なり。
 十兵衛は右の御咎めを被り、謹慎致し居りしが、其の間にも屡々《しばしば》人に語りて、云うよう「此度重き御咎め申付けられたる段は、余が不調法《ぶちょうほう》に付、恐人至極《きょうじんしごく》に候へども、浦人共朝夕餓死数多《あまた》に及び、片時坐視《ざし》するに忍びざるより自分の一命に替え、取計《とりはか》らい候事なれば再度交代の所存は毛頭《もうとう》無之も且つ一己の存分相立たざるこそ心外千萬《しんがいせんばん》なれ」と斯《か》くて十兵衛は独り自ら覚悟を定めて、自刃を期し、竟《ついに》同年七月十九日の夜を以て浦役場の一室に割腹したりと云う。何ぞ其の悲しきことや、何ぞ其の悲しきことや。
 十兵衛藩命を待たずして、米蔵を開きたること固《もと》より公儀を軽んずるに似たり。然《しか》れども之を以て千百の民命《みんめい》を救いたるは、其の功実に無邊《むへん》なりと謂わざるべからず。
 而して、己《おのれ》は昨日を以て千百の民命を助け、自らは今日を以て一死を潔《いさぎよ》ふす。痛悼《つうとう》せざらんと欲するも得べからざるなり。而して、其の義の高きも亦実に感すべきなり。亦実に感ずべきなり。
 十兵衛死するの時、歳方《まさ》に五十一、己にして其の事、郷浦人民に聞へしかば、男となく女となく老いとなく小となく、恰《あたか》も赤児の慈母《じぼ》を失いたるが如く、嗚呼《ああ》々々、岡村殿、死し給いしか、我々が命の恩人たる十兵衛様よ、いかで君には果敢《はか》なくなり給いしぞと吾も吾もと死骸によりそいて、連々と涕涙《ているい》をそそがざる者なく、悲哀慟哭《ひあいどうこく》止むことを知らず。終に相会《あいあい》して死体を八幡宮西脇花表《かひょう》の側芝地《そばしばち》に涕涙と共に埋葬したりしが、是よりの後は郷浦民日夜に其の徳を追回《おいまわ》して墓参りにも怠りなく、斯くして又、村民一同より総代を以て此の上は十兵衛遺家族相続の儀、幾重にも宜しく御詮議被仰付度《ごせんぎおおせつけられたし》と公儀へ対し懇願度々に及びたることもありしが、右の願意は果たして、藩廳《はんちょう》より許容せられしや否や、未だ之を審《つまび》らかにせず、歳を経ること百八十八年時・維《こ》れ明治四年村民更に上請《じょうせい》して神號《しんごう》を付することを許され、仍《よ》て祠《ほこら》を建て鑑雄神社と称することに成り、並びに又、其の事を貞珉《ていみん》に刻みて不朽に伝うることを為し、毎年六月十九日を以て其の祭日と定めあるとぞ。榎逕居士の曰く、吾幼にして、岡村十兵衛の話を老父親《ろうふしん》に聞く。老父親義人の事を語るに及び未だ曾て十兵衛を称せざることあらざるなり。吾幼未だ経史《けいし》に渉《わた》らず。
 而して十兵衛の事、一たび之を耳にするに及んで、深く其の義の高きに感ぜずんばあらず。今にして、羽根村を過ぎ、親しく其の祠に謁し、その碑を読み、又其の日記を閲するに及んで、轉《うた》た追仰《ついぎょう》せざること能《あた》はざるなり。古《いにしえ》に言えることあり。捨生取義殺身成仁《せいをすててぎをとりみをころしじんをなす》十兵衛の如き其《そ》れ斯人弞《このひとか》、其れ斯人弞。

四月十六日 風雨
 昨日に同じ。加うるに東西両川満水にて通行止めと為る。発程《はってい》せんと欲するも得《う》べからず。已《や》むを得ずして、逗住《とうじゅう》す。午後、和田亀之助君招き飲ましむ。亀之助君産業、已《すで》に裕《ゆたか》。而して、最も慈善家を以て名あり。人能《ひとよく》く之を知る。君、本年歳六十位一歳、親戚故旧《こきゅう》因って其の寿を為す。時に和田家に勤めて云う者あり。此の祝節に当り俳優を高知より迎え、一同の演劇を開き、以《もっ》て、卿人の耳目を楽ましむれば如何《いかん》、君、之を聞き、不可を鳴らし且つ曰く、吾れ是《かく》の如きことを好まず。而して、此の吉良川には東西に二つの川あり、橋なし、旅客不便を感ずること尠《すくな》からず。吾、死する後は知らず。
 未だ死せざるの間は(矢《ちか》)誓って、此の事を為さんと果たして其の言の如くす。今日、現に往来の人をして、其の便を得せしむること鮮少《せんしょう》に非ざる也。其の他、平常貧民を助け、不幸の人を恤《あわれ》む。例を挙げて言うべからざるものあり。誠に感ずべきの翁なり。

四月十七日至十九日
 風雨、未だ歇《やま》まず。河水《かすい》益々増加し、未だ発程することを得ず。

四月二十日
 午時《ごじ》(昼時)前発。水猶《みずなお》路上に溢れ、動《やや》もすれば河の如きものあり。左の傍《ほう》、山岳多く、巌石を以て骨と為し、肉と為し、奇形を呈する者少なからず。而して其の間、常に無くして偶々《たまたま》有る所の飛瀑《ひばく》を見ること一両のみならず、蓋《けだ》し先日来の大雨に困って生ずる所のみ。此の邊又枇杷《びわ》を作ること多し。味も亦極めて佳なりと言う。
 稍行《ややゆ》き山を登り西寺に詣《もう》です。当日は祭日にて子女群衆す。寺、其の名を聞くよりも小なり。唯《た》だ地の山上に在るを以て眺望少しく佳なるのみ。寺の傍ら別に境を為し、仁王門より入りて、大師堂、及び大日如来、薬師鐘撞堂あり。是亦記するに足らず。加うるに此の域内へは女人の入ることを禁ずるが故に□
□本日の如しと雖《いえど》も猶《なお》、蕭《さび》しき塩梅《あんばい》なり。
 坂を下る頃合い、鯨舟の騒動するを見る、言う者あり、今日は、鯨魚《いさな》を捕し得るも亦測《はか》るべからずと。同行諸士皆日《いう》、鯨魚の獵《りょう》あらん乎《か》、是れ実に一大見物ならんと、吾、土陽(土佐)の地に生まれ、鯨肉時に之を食うことありて、未だ一回も鯨魚を観たることあらず。 今日にして、捕鯨の実況を観ることを得ば何よりの楽しみならんと、心大《こころおお》いに勇み、気を励まして行く。
 室津に抵《いた》る。同處諸士《どうしょうしょし》、途《みち》に吾㑪《ごさい》を要して、一亭にに小休せしむ。港を一見し、并《ならび》に一木神社に謁す。嘗て聞く室津の港は往昔《おうせき》一木権兵衛の身を殺し以て開鑿《かいさく》する所なりと。今の一木神社は即ち、権兵衛を祀る所なり。祀《し》、
《おうせき》港上一山麓《こうじょういちさんろく》に在り。小さきものにて且つ殆ど廃壊《はいかい》す。之を神社として置く以上には今少し結構に致して然るべし。一木氏の功業は実に感ずるに餘りあることなり。一個巨大の石碑を高知公園の如き場所に樹立しては如何やと思う。吾、今旧記を安し、左の文を作る。此れに之を掲載すべし。
 口は以て、食を入れたり。以て聲をだす所なり。人にして口なければ、累日《るいじつ》ならずして、乍《たちま》ちに枯死せんとす。港は社会にして港なければ貨入る能《あた》はず。産出だす能わず。港の無かるべからざる。猶、其の口の無かるべからざるごときか、土佐の国東西に亘り数十里、南方挙げて皆海。而して吾川郡浦戸港以東、港の称すべきもの、其の初め唯々極東甲浦に有るのみ、其の餘未だ曾て大船を容《い》るるに足るものあらず。遺憾《いかん》何ぞ言うべけん。況《いわ》んや本国東岬の如《ごと》き、寔《まこと》に海南の絶際にして渺々《びょうびょう》たる大洋の中に突出し、其の海波瀾《うなばら》常に踊騰《ようとう》、潮汐極めて、迅激《じんげき》動もすれば、即ち風怒り、浪驚き凡そ来住する所の船舶一朝に其の難に會《かい》すれば、柱折れ、楫《かじ》摧《くだ》け、進退之を如奈《いかん》ともすっべからず。船覆《くつがえ》り人溺れ、鮫魚《こうぎょ》の腹中に葬らるゝにあらざれば、則《すなわ》ち極外窮《きょくがいきわ》むべからざるの鬼域《きいき》に漂放せられ、生きて、再び、還ること能《あた》はざるは、蓋《けだ》し又、実に少なからざるに於てをや」宜矣哉《むべなるかな》、大守《おおかみ》山内忠義公の時に方《あた》り、室戸鑿港《さくこう》の議起こる。初め寛永七年より慶安三年に至るまで、(其の間二十一年)之を開鑿《かいさく》し、之を修築すること大凡《おおよそ》両三回、而して、猶、未だ大船を入《い》るゝに足らず。寛文元年、再び議し、更に改鑿《かいさく》せんことを謀《はか》る。野中良継命ぜられて、之を総督《そうとく》す。渡邊小兵衛《わたなべしょうべえ》副たり。而して、且つ其の役に當る者を一木権兵衛と為す也。権兵衛已《すで》に任ぜられて、事に鑿港《さくこう》に従う。日々、四五千の工夫を使役し、處理《しょり》する所を誤らず。歳積《としつ》み、日累《かさな》りて業幾《ほと》んど成る。唯《ひと》り湊口《そうこう》に巨巌の在る有り。三個相聨《つらな》りて屹立《きつりつ》す。曰《いわ》く鮫礁《さめばえ》、曰く斧礁《おのばえ》、曰く鬼牙礁《きばばえ》、高さ七八尺、長さ十間餘、其の状皆奇鋭《みなきえい》、剣の如く、戟《ほこ》の如く、啻《ただ》に港口を壅塞《ようそく》するのみならず。船脚之に觸《ふ》るれば一瞬にして粉塵と為らざること希《ま》れなり。
険も亦、甚《はなは》だしと謂うべし。只《ただ》、其の之を除かざるが為にして、功《こう》未《いま》だ全《まっ》くこと得《え》ざるなり。権兵衛因《よっ》って策を為し、土豚《どとん》(土嚢《どのう》!)七万五千餘を作り、之を以て大堤《たいてい》を三嵓《がん》の外に築き、巨木を列《つら》ねて之を打破せしむ、嵓極《いわきわ》めて堅く鎚《つち》損じ、石變《へん》せず、屡々《しばしば》之を為して、屡々此の如し、日移り、人倦《う》み、如奈《いかん》ともすべからず。(此の間又、一木氏の所業を外より種々に非難し、嘲弄《ちょうろう》する者もありたりと言う。権兵衛是に於て藩廳《はんちょう》に上申するに大《おお》いに役夫《えきふ》を増さんことを以てす。藩廳之を許し、更に三千の工を増さしむ。新工、旧工と咸力《みなちから》を合わせ、各々鐡鎚《てっつい》を手にして鑱鑿《さんさく》す。嵓猶を前日の如くにて、労の費えあり。功の見るべきなし。権兵衛苦慮する所甚だ少なからず、衆口皆曰く、「此の處神の惜しみ給う所にして、此の岩石の下には何か怪敷者《あやしきもの》の其の居を托《たく》することにてもあらん歟《か》。左《さ》ればこそ、岩石之を碎くと雖《いえど》も破ること能わざるならん」と権兵衛の曰く、「吾多年寝食を安ぜず、粉骨虀身《ふんこつさいしん》、事《こと》に此に従う。其の功も亦幾《ほと》んど八九分に至りて、唯此の岩石の為に成を造ること能はず。空しく幾多の日子《にっし》と幾千の人夫を費やし、無念遣る方なし。此の上は更に心を清め、大いに祈願を込め、此の一念を貫くべ志《し》」と因って沐浴して拝祈《はいき》し、且つ立誓して曰く「権兵衛苟《いやしく》も此の役に當り、大いに心魂《しんこん》をを凝《こ》らし、是に及びし處、唯だ此の岩石未だ除かざるが為にして、功、其の完《まった》きを造る能わず。施《よ》って夥しき日子を費やし、人夫を役し、国主を始め奉り萬人に對して何等かの面目を相立たず、伏して願わくば、少しく燐察を垂れ給え、神若《も》し愚臣の祈願を採納し給いて、早々此の岩石を破砕することを得せしめ、港、成就することを得せしめなば、愚臣其の時に至り謹んで、一命を捧げ奉らん」此《か》くの如くに祈願すること一昼夜、翌暁《よくあかゆき》自ら衆を率い、大いに力を励まして、打破せしむるに堅岩忽然《こつぜん》として摧裂《さいれつ》し、破片粉の如くに散る。衆人の欣躍《きんやく》豈《あに》啻《ただ》ならんや(或は言う岩摧けたる時、果たして羶血《せんけつ》の併出《へいしゅつ》するを見たりと、蓋し、岩石は礦物《こうぶつ》之動物にあらず。安《いず》んぞ羶血の併出すべきあらん。密かに考えるに、彼の岩石は最も銕質《てつしつ》を包有《ほうゆう》し居り、其れ故にその堅きことも他の凡岩の比にあらっず。而して、其の銕汁《てつじゅう》に参加するに潮水《ちょうすい》を以てする為め、恰も鮮血の如きものを目撃したるならん歟、又其の権兵衛神に祈りて、後に思いの外摧裂《さいれつ》し、易《よ》かりしは他なし。良心一定して今は早、何とか摧裂せざることの有るべきと確信し因って、以て、手を下したればなり)皆曰く、「不思議なる哉、々々々々々々、義士の一念、鬼神之に感應し以て此に至れる歟」と仍《よっ》て湊口《そうこう》に土豚七万五千餘を以て潮を防ぎあるものを取除け、又は切放ちしに潮水暫く時にして、港内に注入し、復《また》、遺憾とする所なし。看る者、吾も吾もと口々に歡呼《かんこ》して曰く「慶すべき哉々々々々々、港其れ此れに至りて成就す。何ぞ、其の多幸なることや、是よりは如何なる船舶も自由に出入りすることを得べきなり」と。
 果たして、之を實施するに誤る所なし。まこと寔《まこと》に一木氏の功なる哉。寔に一木氏の功なる哉。蓋《けだ》し、此の工、事を寛文元年に始め、延宝七年に至りて畢《おわ》る。歳を累ねる大凡《おおよそ》十九年、工を役する弐百参拾六萬五千七百人、米を費やす四萬五千石、金を費やす弐萬五千両と言う。而して、一木氏自ら以為《おもえ》らく、今にして此の港、漸《ようやく》く成就する。吾復《また》、餘念の存する所なし。吾初め、神に誓うに、岩摧裂《さいれつ》し
港成就せしならば、謹んで一命を捧ぐべしとの事を以てす。今、目前に岩摧裂し港成就して吾一命を神に捧ぐべきの期迫る。男子何為《なにす》れば神に對して誓う所を破るべけん、と。
殊に家族を高知より呼寄せ、舒ろに遺言を子孫に為し、竟《つい》に、延宝七年未歳《ひつじのとし》六月十七日申《さる》の刻《こく》を以て、室津港上に自刃す。時に年六十有三、鳴呼《ああ》何ぞ、其の悲しきことや、鳴呼何ぞ其の悲しきことや、同處、津寺境内山麓(西脇)に葬る。権兵衛、姓は藤原、諱《いみな》は政利、覺岩院常譽居士《かくがんいんじょうよこじ》と戒名す。
 碑を建つ。高さ八尺、刻するに右の戒名を以てす。歳を閲《けみ》すること壹百有九十八年、時維《こ》れ、明治九年、有志者周旋《しゅうせん》する所あり。
一小祀殿《しでん》を築造し、永遠吊祭《ちょうさい》の處と為す。之を一木の神社と號す。毎年六月十七日を以て、祝日と為す。参拝の人、東西より雲集せざる無しと云う。猶、此の一木権兵衛の事績に就いては、別に詳しきもの手に入りたれば、是も携《たずさ》え歸《かえ》るべし一の小説にも相成《あいな》るべくと考えられ候《そうろう》云々《うんぬん》。
 室津にて休憩中、報ずる者あり、曰く果たして津呂沖にて鯨魚の獵ありと。吾等一行之を聞き、喜《よろし》きこと一ならず。飛ぶが如くに足を早めて、津呂に抵《いた》れば、其れの處、海濱に暄聲《けんせい》湧くが如きを耳にしつつ、人群の山を成すを見る。同伴の人、皆曰く、甚だ異《あやむ》べきことなり。彼の處は平常鯨を引上げる場處《しょ》にあらず。何故なれば、今日に限りて、場處を違え居ることなるぞ。訝し々々々と愈々進んで、之に近付けば先ず、第一に、言うべからざる
悪臭を以て、吾等の臭神経を驚かしたり。左《さ》れど辟易すること無く瀕《せま》りて、之を見れば、鯨は鯨に相違いなけれど、已《すで》に大半腐敗したるものにてありしなり。此の際は已に半分ほど裁《きり》り捌《さば》き居りて、其の截肉《せにく》は一々沙上に並べ置き、猶、其の半分ほどに成りたる魚の軀《からだ》
へは魚切りと称する者、長柄、若しくは包丁を持って登り行き、一方の端から其の肉を切り頽《くず》す。之を切り頽せば、或いは縄にて沙上に引上げ、或いは鍵《かぎ》(熊手)にて(其の鍵を持する者は、之を鍵引きと称す)陸に運び行く。其の傍近《ぼうきん》は腥血《せいけつ》の為に海水悉く赤色を成し、其の最中に截捌《きりさば》きおる鯨の側《かたわ》らへは○○
○の者夥しく来たりて、肉の小切れを拾い、或いは偸《ぬす》む。甚だ熱ヶ間敷《あつかまし》く見受けたり。
折々は水を掛けて之を逐い。或いは叱咤《しった》して
之を攘《はら》えども、手ひどくは致さず。是も習慣の存する所なりと云う。良《やや》あり、縄を鯨の頭にかけ、数十人の者が寄ってたかって其の縄を取り、音頭が采配を振り、木遣歌《きやりうた》を謡《うと》て衆を勵《はげ》ましつつ遂に之を沙上に引上げたり。
山撼《うご》き、地震《ゆる》ぐが如く覺えたり。
 蓋《けだ》し、此の鯨は「ナガス」と称する種類のものにて、長さ僅かに八尋位(鯨にはセビ、ナガス、ザトウ、イワシ、コクジラ、マッコ等の種別ありと言う)鯨にしては大きなるものと謂うげからず。又、其の之を得たるは、本日より四五日も以前に其の鯨が海中にて海虎《しゃちほこ》の為に噛み殺され已に死したる後、海面に浮び在るを認めて、取り来たりし譯《わけ》なりとぞ。其れゆえ、今日と為りては已に腐敗し居りたるなり。已に腐敗し居りて悪臭甚だし。
之を平常の場處へ引上ぐれば、臭気を其の跡に遺すことを恐る。其れゆえ之を平常と同じからざる他の場處へ引上げたるなり。話を聞く。此の鯨は已に腐敗し居りて、其の肉、最早食うべからず。去れど、其の價《あたい》は壹百五十有餘圓ありと。噫《ああ》斯の鯨の如きは悪臭堪ゆべからざるほどに、腐敗し居るにもせよ、猶、且つ此《かく》の如きの価値あり。而して、世上政党の仮面を蒙《こうむ》り悪臭鼻を突くばかりに腐敗する者、果たして壹百有半の価値ありや、甚だ訝しく存するなり。斯《か》くする中に夕陽背山《せきようせざん》に春《うず》
く比《ころお》ひと為りしにぞ吾等は此處《ここ》を辞し旅館に赴く。途《みち》にして津呂の湊を看る。津呂港は往昔、忠義公の時に丁《あた》り、安積幸良《あずみゆきよし》、衣斐勝光《えびかつみつ》、野村成正《のむらせいせい》、等をして、其の責めに任ぜしめ、以て開鑿《かいさく》する所と為し、事を寛文辛丑《かのとうし》正月十六日に始め、工役を用いる参千六萬五千有餘、黄金を費やす壱千百九十両、成りを三月二十八日につげたるものなると言う。黄昏、旅館に入る。夜に及び有志者四十名可《ばかり》。懇親会を開く。余之が為に、一番の演説を為す。終りて置酒《ちしゅ》す。演説も亦絶えず。午前二時に至って寝に就く。
四月二十一日 晴れ
 朝、発歩して行く、同伴する者多し。町外れより少しく行きたる處にて思わざりき海濱《かいひん》
岩際《いわぎわ》より呼び聲を発し、吾等を招く者あり、至れば則ち當地有志者、某々君《それぞれくん》等酒を瓢《ひさご》にし、
肴《さかな》を筥《はし》とし、此の處沙上に開筵《かいえん》して豫《あらかじめ》謀《はか》り、吾等を途に要して一杯を勧め、以て、吾等、今朝の行を送らんとするものなり。亦是1奇《き》なり。乃《すなわち》献酬《けんしゅう》之を数番《すうばん》し、更に行き、山を登りて東寺に詣です。山上、面白くも無き、可笑しくも無き處に、大きくも無き、美しくも無き一宇《う》を認む。之を遥拝處《えつはいしょ》と称する由なり。四国巡礼の徒、男となく女となく来たりて拝祈する者、尠《すくな》からず。
 稍《やや》隔《へだ》たりたる處に祖師堂あり。更に行けば、元《も》との本堂にて、今其の屋葢《やね》もなく板壁もなく雨には濡れ次第、風には吹かれ次第、只《ただ》、柱などの組立のみ残し居りて、哀れ至極に成り果てたるものあり。昼にても、狐、梟やうのものの住まいそうに見受けたり。再び修繕するは曷《なん》の時にかあるぞ。其の前に仁王門あり。是は何とか言う党派の如く、幾んど頽《くず》れんとして纔《わず》かに存するのみ、此の仁王門より内本堂の在りし場處へは今も女人を入らしめず。本《もと》は女人を禁制すべきほどの霊地にてありしや知らざれど、今は狸の跋扈すべきほど荒れ地に成り居るなれば、女人入りたればとて、何の仔細《しさい》も無かるべけれど、巡礼の者誰も彼も此に至りて、其の餘りに廃壊したるを見るときは、一度に愛想をつかすことと成り、都合悪しきことも有るべければ旧の如く女人を禁制すること寺の為に得策ならん。右の外、古き時代には種々の建ち物もありし様子なれど、今は大概滅びたるよし。転《うたた》に気の毒に存ずるなり。寺僧の品行に就いては、色々聞き及びたる次第もあれど、此には挙げざるべし。檀家の人々には今少し注意して可なるべしと言うことを一言し置くのみ。
 初め、吾以為《おもへ》らく本堂の邊に登り臻《いた》ば、東南西三方を1目に見開き、其の觀、最も巨にして、且つ最も壮《そう》ならんと、地を選ぶこと善ならざるが上に、榛莾《しんもう》の蔟々《ぞくぞく》として眼《がん》を遮《さえぎ》る
もの多く其の價豫想の半分にも當らざりしなり。昔日は群猿《ぐんえん》の戯《たわむ》れ居りて、見物の一端ともなりし由なれど、今は其れとても居らず。東南に向いて、坂を下る。始めて、東海の森々たるを眺め改觀する。坂を下り詰めたる處、某の一隅《ぐう》に岩窟《がんくつ》あり。内に子安観音《こやすかんのん》を安置す。是より山を西に負い、海を東に扣《ひか》えて北行《ほっこう》す。山形奇峻《さんけいきしゅん》、樹木も亦珍異《ちんい》、目を喜ばすもの饒《おお》し、稍行《ややい》く、更に二つの大巖窟《がんくつ》あり、大きさ家の如し、右の穴には天照皇太神《てんしょうこうたいしん》を祭り、左の穴には御所の神社を祭るとの話しなり。総《すべ》て、此の邊は奇岩怪石、最も多くして、或いは海際に在り、或いは断岸《だんがん》の間に聳え、神鬼剡《しんさんきえん》、幾《ほと》んど形状すべからず。縱《たと》い如何《いか》なる名畫工《めいがこう》と雖《いえど》も此の處に来れば、必ず筆を捨つることなるべし。況《いわ》んや余が如き文章に拙《つたな》き者を以て、其の萬一《まんいち》を描出することを得べけんや。之を聞く岬の極南、最も觀の奇異なるものありと、余《われ》れ今日、東寺に登り、同處より坂を下りて、此に来りしを以て、極南の海岸を通らず、旋《かえ》って憾《かん》を遺《のこ》したり。更に行く山は漸《ようや》くに其の奇を失えども、海濱の模様は転《うた》た面白く、大濤の岩に觸《ふ》れて白波空に漲《みなぎ》り、瓏珠玲玉《りゅうじゅれいぎょく》、躍《おど》るが如くに飛散するなど、其の觀甚だ俊《しゅん》なり。路傍何とも知れぬ藁《わら》小屋
比々《ひひ》として之あり。如何なる譯《わけ》のものかと問えば、網など藏《おさ》め置く所なりと答える。
 十二時三津に抵《いた》り、岩貞官馬氏宅に小休し、昼食を供せられる。午後三時椎名に抵り、多田嘉七氏、家に茶を喫し、五時過ぎ、佐喜浜に抵る。植松龍太郎氏、植村馬七氏等の迓《むか》うる所と為り、某覊舘《きかん》に投ず。夜、懇親の宴を張る。会する者、四、五十名、余之が為め演説す。門外には高く響く者を波濤《はとう》の聲と為し、場内に畳なり満つるものを自由の空気と為す。

四月二十二日 曇り
 海は晴れんとす。山は雨《ふ》らんとす。二つのもの相争う。勝敗未だ知るべからず。午時前《ごじぜん》発す。水尻に至り小休す。是の邊に至るまでは風光の敢《あえ》て記すべきなし。更に行き、淀ヶ磯に遭《あ》う、俗に、飛石、跳石、殷々《ごろごろ》石と言うもの皆、此の處に在るなり。昔より、非常の難所なりと八釜敷《やかまし》く聞こえたるほどにて、固《もと》より常の路にこそ有らね。近来は追い追いと金を費やし、工を加えし事もありしよしにて、然程に難所と称すべき様も見えず。其の殷々石と称する處は浜の石を捲き上げ、捲き下ろし、濤聲《とうせい》殷々《ごろごろ》々々と響く、それゆえゴロゴロ石とは名付けたるとかや。今は波打際に細沙《さいしゃ》生じ、ゴロゴロの響きも昔の如く甚だしからざるよし。
 大いに進んで、其の山坂を踰《こ》え、野根川を渡り、野根村に抵る。同處諸士《どうしょしょし》の案内に遇《よ》り某逆旅《それぎゃくりょ》に投ず。諸士来り、置酒《ちしゅ》す。此の夜、雨甚《はなはだ》し。野根村高知を距《へだて》ること二十餘里、加うるに野根山の険あり。人の高知に往来する者甚だ多からず。陸ならば徳島に行くを高知に行くよりも便なりと為し、海ならば大阪に行くを、高知に行くよりも便なりと為す。其れ故、高知の間化を輸《ゆ》することは至って少なく、品物は多く大阪に仰ぎ、人馬は多く阿波に往来す。土佐の風一分に居る。阿波の風一分に居る。大阪の風一分に居る。

四月二十三日 雨甚し
 午時前《ごじぜん》に至りて歇《や》む。然《しか》れども未だ晴れず。午後演説会を開く。会場狭隘《きょうあい》にして三百人以上を容るゝこと能わず。溢るゝ者は場外に在りて、壁越しに聞く。聴衆《ちょうしゅう》多くは今回を以て始めて、政談を聞く者なりと言う。其れにしては議論能く徹底したるやうに覺う。植松龍太郎君、一題を演じ、余二題を演ず。昨夜以来若しも降雨の甚しかりしこともなく、今日も朝より天気にてありしなば、聴客如何ほどに夥《おびただ》しかりしや測られざりしなれど、奈《いか》んせん、昨夜より雨強かりしゆえ、谷々に水溢れ、橋梁《きょうりょう》無くなりし個處《かしょ》も尠《すくな》からず。其れが為、報告も十分には行届かず、遠方より来らんとするも、来ること能わざり者多かりしなり。夜開宴す。列座する者、数十人余又演説すること一番、更深《こうふこ》うして止む。

四月二十四日 晴れ
 本日より歸途《きと》に就く。晩朝駕籠《ばんちょうかご》を以て発す。淀ヶ磯を過ぎ、佐喜浜に午食《ごしょく》し、椎名に抵《いた》りて、多田嘉七氏の家に宿す。夜、傍近《ふきん》の農男農女、樵老《しょうろう》、樵壮《しょうそ》余が此處《ここ》に一泊するを聞き傳え、吾も吾もと推《お》しかけて来りて、今日の方向を指示せんことを請う。皆、是期せずして集まりたるものなり。吾、懇々《こんこん》と之が為、説教す。皆、悦んで返る。

四月二十五日 陰
 晩朝発。歩して十連坂を踰《こ》ゆ。途《みち》にして雨降る。午後室津に着す。宮田氏の家に宿す。當處及び津呂等の諸士至る。

四月二十六日 雨
 午後に至り霽《はる》る。浮津捕鯨社を会場と為し、一大懇親会を開く。来たり會する者、一百有餘名、尾原澳竹《おはらおうちく》君、開会の主旨を陳す。余之が為に一場の演説を為す。終わって置酒《ちしゅ》。更に又、土居《どい》より遠来せらるゝ、畠中六朗君、佐喜浜より来たり會せらるゝ植松龍太郎君等の演説あり。自由の聲、波濤の聲と與《とも》に響き渡りて、山岳を揺《うご》かし来る。斯の如き盛会は當地にて多く有らざりしことなるべし。
四月二十七日 晴
 午後演説会を浮津捕鯨社に開く。恰《あたか》も其の頃より天気變《へん》じ、雨降り、雨益々甚だしくして盆を傾くるが如く、或いは電閃《でんせん》きき、雷轟《らいとどろ》くほどの事にてありければ、少しく遅れて来たり、掛けたる者の中には其れが為、到着する能《あた》わざりしも少なからざりし由なれど、本日當地にて、演説会の有る事は豫《かね》て、高々と聞こえ居りしことゆえ、東は椎名近在より、西は吉良川近在より、遠きは、三四里ほどの處よりも竸い立ちて、運び来る者多く、聴客の数乍ちにして七百有餘にも及びけるにぞ、第一に尾原澳竹《おはらおうちく》君登壇《とうだん》し、次に清水泉《しみずいずみ》君、演説し、其れよりして、余は二時間半の時間を以て、三題を演説したりしが、其の聴衆は余に對《たい》して、最も熱心の耳を差向けたり。凡、演説の場合には聴衆の聴神経、直ちに演説者の発言器と聯絡《れんらく》し、聴者《ちょうしゃ》と言者《げんしゃ》とは有形上如何ほどの距離あるにもせよ、無形上に於は、一方の鼓膜は直ちに一方の口唇《こうしん》に切迫するのみならず、更に進んで、胸内《きょうない》に入り、臓腑《ぞうふ》に入るほどにあらざれば、面白くはあらざることなるが、本日の如きは幾んど此れに至らんとする趣にてありたり。右終り有志諸士、余を慰労するが為なりとて、更に宴席を張る。列座する者六十五人、会場が捕鯨社にて、有るほどにて、流石《さすが》に鯨飲《げいいん》する豪傑達もありたるように見受けたり。余は酒に於いて價い、走卒《そうそつ》にも當たらざるべし。 

四月二十八日 晴
 馬を以て発す。途にして時々小雨に遭う。吉良川に小休し、羽根に午食し、今回は中山を山越に越えずして岬廻りに砂地を歩み行き、岩間を飛び行き、加領郷《かりょうごう》に出て、奈半利を経て田野に抵《いた》り、□號《そごう》旅館に投ず。本日来る所の途上、元《もと》變より羽根變に至るまで、北方断崖絶壁の間、奔水千尋《ほんすいちひろ》の上より潟下《しゃか》し、餘沫空《よまつぞら》に漲りて勢い最も壮なるものあり。或は緑葉紅花の側に濛々《もうもう》白波を雨《ふ》らして、觀、最も美なるものあり。吾等をして、眼眸《がんぼう》を慰養せしむる少小に非ざりしなり。午後、浄土寺に於て演説会あり。時、稍晩《ややおそく》くなり居りたれば、余は二時間餘りを以て、一題を演説したり。終わって懇親会を自由亭に開く。会する者四十余名、席上演説を為す者続々として顆《おびただ》しく出で来たり。自由の音聲《おんせい》をして、自由の楼上に山岳も撼揺《かんよう》するが如くに響き渡らしめたり。

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