2012年2月2日木曜日

八・金蘭 九・柿の木 十・夏冬 十一・腕立ち 十二・万との腕くらべ



    八 金蘭

 杣人の三次さんがある日、桑ノ木山で黄葉の寒蘭を見つけた。喜んだ三次さん早々に持ち帰り、野根山杉の古株に植えた。やがて桑ノ木集落に晩秋が訪れ、黄葉の寒蘭に黄金色《こがねいろ》の花が咲き、香りが集落に漂った。佐喜浜は、県東部一、二と云われる寒蘭の自生地である。さすがの人々も、この様な見事な蘭は見たことも無く、これこそ伝説の金蘭だ、ともて囃《はや》し話題となった。
 このころ、土佐藩主・山内の殿様が野根山越しに東部の巡視に来る運びとなった。佐喜浜の庄屋・寺田は、殿様の長旅をお慰めしようと、献上品をあれこれと考えあぐねた。やっと思い付いたのが、三次さんの金蘭であった。早速ことと次第を三次さんに話した。すると、お人好しの三次さん、二つ返事で承知した。
 桑ノ木から野根山街道に登った所に「小野《この》お茶屋の段」という広場がある。(注「お茶屋の段」とは、大名行列が休息する場所で、野根山街道沿いには数ヶ所あった)
 さて、殿様の一行が小野にお着きになり、しばしのご休憩となった。そのとき、庄屋は恐る恐る金蘭を献上した。すると「おお、これが噂に聞く金蘭か。まことにもって見事じゃ」と、いたくご満悦され、金百両を下賜《かし》された。いくら珍しくとも、たかが山の草。それが百両という大金に化けてしまった。佐喜浜の人々は、この話しで持ち切りとなったが、意に返さない三次さん、一言、「殿様も大層な無駄遣い者よ」と、ちくりと皮肉った、という。
 浦人が「三次さんよ、あの金蘭は何処にあったか」と、尋ねる。無欲な三次さんは「桑ノ木の奥の谷の、南斜面に枯れた栂《とが》の大木がある。その根元だ」と教えた。それ行けとばかりに、欲の皮の突っ張った連中が行ってみると、栂の枯れ木がある。しかし、白骨林というべきか、無数に枯れ木が立ち並び、どの木の根元なのか、さっぱり見当がつかない。そこで、引き返してもう一度聞く。三次さんは、ここぞとばかりに「知れたことよ。あの蘭を採った時には、枯れ木の雲の梢に一羽の鷹《たか》が留まっていた。その鷹が目印よ」といって、煙に巻いたという。
   九 柿の木
 桑ノ木集落のすぐ上流に、段と言う集落がある。そのまた上に、段ノ上《かみ》に一軒家があり、その墓地の側に今も大きな柿の木がある。この柿は三次さんが植えたものだという。段に早い秋が訪れると柿の実が熟す。その熟柿を狙って、百舌《もず》が来ては食い散らかす。三次さんにしてみれば「せっかく儂《わし》が植えた柿を、百舌ごときに食われては沽券《こけん》に関わる」とばかりに、刺し鳥黐《とりもち》や釣り針に夜盗虫《よとうむし》、小さな蛙を餌に仕掛けて捕っていた。この頃から、日本一の百舌捕り名人と云われ始めた、という。   
   十 夏冬
 三次さんの奇人変人ぶりの一つ。当り前であるが夏は陽射しが強い。そこで三次さん、綿入れの長襦袢《ながじゅばん》に長ズボンをはいて陽射しを避けた。冬は陽射しを全身に浴びようと、薄い袢纏《はんてん》で手足や胸をはだけて暮らしていた。健康に気を使った人、と云えばそれまでだが、自然児三次さん、躍如の所以たりや。
   十一 腕立ち
 三次さんは、薪割りの名人だった。石を当《あ》て木がわりに百掽《はえ》の保佐《ぼさ》(雑木・燃料木)を割った時、石の当て木はわずか三ヶ所の傷を残すだけでだった、とか。   
   十二 万との腕くらべ
 三次さんの所へ、阿瀬郷《あせご》の大男の万《まん》が、保佐の割り競べをしにやって来た。時間を定めて始めたが、割った保佐の数は同じであった。万「流石《さすが》に噂に登る三次さんじゃ。儂と引き分けるとは大したものよのう」三次さん「いいや、この勝負は儂の勝ちじゃ」といった。良く見ると、保佐を割るのに、万は石を当て木がわりにしていたが、三次さんは木を当て木にしていた。その当て木が半分切れていた。三次さんは「見てみよ、儂は木の当てを半分切っているぞ。その分だけ、儂の勝ちよ」と嘯吹《うそぶ》いたという。
 「阿瀬郷の万」について、阿瀬郷とは、野根川最上流、県境の平家の落人集落である。ここに、杣を生業とする働き者の夫婦が居た。この二人の間には子供が授からない。それを見かねた久尾集落の村人が、阿瀬郷の氏神に御籠《おこも》りすることを進めた。氏神は熱心に祈願する夫婦に応え、男の子を授けた。夫婦は、その子を万と名付けた。万は健やかに育ち、二、三歳にして野山を駆け巡り、川に遊び、十二歳にして父の仕事をこなした。成長した万は、父母に別れの言葉を残し森へ消えた。
 再び姿を現した万の姿に夫婦は驚く。全身毛むくじゃらの大男となっていた。万は家を出た経緯《いきさつ》を語る。「あのまま父母のもとで暮らしていては、人を喰っていた。だから森へ入り苦行を重ねた、と告げた」が、万の性情は変わらなかった。父母が病に臥せると、家の前に薬草が山と積まれていた、という。「阿瀬郷の万」の話は、四国内に広く伝わる。
 次回も三次さん噺です。お楽しみ下さい。           
                          文 津 室  儿
                          絵 山本  清衣
 

2 件のコメント:

  1. 季節がぼけているのですが、安芸奥の五位ヶ森に上ったことがあります。無事に降りて畑山の川で汗を流していると通りがかった地元の御仁に「何をとりにきたがぜ」と訊かれました。「五位ヶ森に上ってきたがです」と答えると、感心?したように笑って行かれました。佐喜浜が寒蘭で知られていることを知ったのはあのころだと思い出しました。

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    1. なにがあってもだいじょうぶ

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