2012年3月14日水曜日

十九・虎杖 二十・偽の聾唖 二十一・最も暑い夏 二十二・口髭と耳朶



 十九 虎杖
 三次さんはある時、虎杖《いたどり》(イタズリ・土佐の方言)の伸びる様子を見てやろうと思った。中里の虚空蔵庵の河原にやって来てきた。四寸(12㎝)ほどの虎杖を見つけると、三次さん虎杖の側にごろりと横に寝ころび、一心不乱、瞬きもせずに見つめ続けた。夜が来た。三次さんは、まるで倒れた地蔵さんの格好で動こうともしない。朝が来た。寝ずの番で見続けた。虎杖の旬は、春もたけなわ四、五月頃、虚空蔵庵の長閑な朝の景色は一幅の絵画である。通りすがりの人々が「三次さん、伸びたかえ」と問い掛けた。すると、三次さん「うん、伸びたには伸びたが、いつの間に伸びたか分からんきににゃ」と答えた、という。
 この三次さんの「虎杖の成長を・・・」は奇行噺中でも、最も趣のある類であり、まさに禅問答である。

二十 偽の聾唖
 ある時、三次さんが借金をした。何を思ったか、偽の聾唖者に成りすまし、借金取りが来ても、取り合わなかった。こうして、聾唖で三年間押し通したが、ついにばれる日がきた。保佐《ぼさ》の川流しの際、川水が少ない時は川を塞き止め、充分に水を溜め、一気呵成に堰を崩し保佐を流す。この堰を崩せる人は三次さんしかいない。と或る日、三次さん堰崩しに雇われた。手はずは、「堰の留め具をはずした瞬間、岸に逃げ込む」いつになくもたついた三次さん、逃げ込む前に堰が切れてしまった。三次さんたまらず、潜り込み保佐と大水を遣《や》り過ごした。やがて静かになった水面に浮かび上がり一息ついた。岸で見ていた人々は、最早三次さんもこれまで、と思った矢先、無事に浮かび上がり大喜び。「三次さん、大丈夫か」との声に、ついうっかり「おお、大丈夫じゃ」と応えた。これでついに、偽の聾唖がばれてしまった。そこで、借金は皆が小分けして払ったそうな。
 この話は、誰もが三次さんに敬慕の情を以て接する。それを妬む者が、汚点を付すためにたくらんだ作り噺だと伝わる。

二十一 最も暑い夏
 元治元年(一八六四)三次さん五十四歳の夏であった。八月二日、岩佐の関所(投獄された武市半平太を救おうと、嘆願を協議した場所)に人々が満ち溢れた。土佐勤皇二十三士が阿波に旅立つ朝であった。
 この頃の三次さんの仕事は、杣や小作、野根山街道の保全であった。木を伐り草を刈り、それはそれは見事な仕事ぶりであったという。岩佐の関所の誰もが三次さんに親しみをもち、身内同然の存在だったそうな。ことに伴頭の川島惣次さんや番士の北川さんに可愛がられ、関主の木下嘉久次、慎之介の兄弟は物心がついた頃から随分なついていたという。この日、十六歳になった慎之介さんの顔が随分大人びて逞しく見えたという。
 一ヶ月後、岩佐の関所に歴史的な悲しく切ない話がとどいた。三次さんは、三人に思いも掛けない形で再会する。それは、罪人として唐丸籠の中にいた。阿波の海部で囚われ、田野郡奉行所に送られる二十三人を、岩佐村七十余人が見送った。三次さん、面会を申しでた。許され。三人は異口同音に「おう三次さんか」と、小さな唐丸籠の穴の向うで微笑んでいた。「三次さん達者でな」と惣次さんが声をかけてくれた。束の間の再会であった。二十三人は、三日間に分けられ送られた。田野に着いた一向は、詮議の機会も与えず斬罪に処せられた。奈半利川が処刑の場となり、川が血で赤く染まったという。悲しい知らせは、その日の内に岩佐に届いた。三次さんは三日三晩泣き明かしたという。三次さんにとって、この年は生涯で最も暑い夏になった。
 時は移り、明治三年(一八七〇)岩佐の関所は廃止となり、二年後に岩佐村も廃村となった。生涯で最も暑い元治元年の夏以降、ユーモアに満ちた三次さん噺は聞かれなくなった、という。
  
二十二 口髭と耳朶
 晩年の三次さんは、立派な口髭を生やしていた。三尺(約90㎝)余りの長さを誇り、真っ白い髭は、毎日上等の茶葉で磨き上げ輝いていた。明治二十年代に、その髭を三百円という大金で買いに来たが、三次さんはどうしても売らなかったという。
 三次さんの最後の言葉を、白壁のお婆《ばば》さんがこの様に伝える。死ぬ間際、自分の耳朶《みみたぶ》をつまみ、「こりゃ耳朶よ、お前は一生俺を騙しよったにゃ」と、一言云って死んだそうな。
 お婆は、次のように言って見送った、という。三次さん、貴男は決して耳朶に騙された人生ではありません。私たちに心温まる多くの噺を残してくれました。後の世の佐喜浜人の気持ちは、次の通りです。「三次さん、前田三次郎さん有り難う」です。 合掌
 三次さんは、坂本龍馬と同様に、生没月日が同じで、文化十三年三月十七日生れ、明治二十七年三月十七日に没し、享年七十八歳の生涯でありました。
 三次さん噺は以上で「完結」です。長い間お読み頂き、有り難うございました。次回より通常に戻ります。お楽しみ下さい
          文 津 室  儿
          絵 山 本 清衣

  

2 件のコメント:

  1. 三次さんの噺ありがとうございました。往時の風景がよみがえってくるようです。そのころは佐喜浜の中心は浦より川を少しのぼったところにあったのではなかったかと思われます。すると中尾出身の小堀満馬先生が思い出されました。先生は東京で弁護士をされていましたが、郷里を愛され、郷党のことをいつも親身に思ってくださった方です。一度声をかけていただいたことが鮮明に記憶されています。三男樹氏は法曹を継がれ、98-00年日弁連会長をされ、また、民事法律扶助事業を法テラスに引き継ぐ中心になった方ですが、平成21年9月逝去されました。ひさしく途絶えていますが、かって東京佐喜濱会には、ご多忙にも関わらず父君の故郷の人たちの集まりということで毎回ご参加いただき、お話くださいました。遺された三次さんの噺に込められている佐喜濱人への期待は後輩たちに引き継がれ、生きていくと思われます。

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  2. 3月17日は三次さんの生没月日ということで、ご紹介いただいた三次さんの噺を最初から通して読ませていただきました。子供のころに「桑の木の三次さん」というタイトルの文字を郷土誌(「沖の船」だったか)で見たような記憶がありました。今回御ブログで、三次さんの挿絵も楽しく、懐かしい詳細な伝説を教えていただき、ようやく三次さんに会えた感じがしています。あらためて、お礼申し上げます。

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