古式捕鯨・浮津組遭難の記録
捕鯨は壮烈な鯨との戦いのほか、時に荒れ狂う海との闘いであった。三津浦沖で起きた、浮津組遭難の記録を起こしてみる。
今から百二十六年前の明治十八(一八八五)年十二月十七日、今年も残すとこ後《あと》半月足らず。ここ数カ月間、鯨は姿を見せず不漁の日々であった。今日も漁《りょう》が無ければ、節季《せっき》を一文無しで越さねばならない。漁師の顔には悲愴な面持ちが漂っていた。
まだ明けやらぬ午前五時、三津浦の六ヶ谷本山見《ほんやまみ》が座頭鯨三頭(親子)の来游を発見した。漁師達に笑みが零《こぼ》れた。しかし、昔から漁師仲間は、「背美の子持ちは夢にも見るな」と恐れていた。子供を守る鯨の母性愛は大きく、時として人間をも凌ぎ、母鯨は子供に危険が迫ると豹変し狂暴になる、と伝えられ、座頭鯨も例外では無いと教えられていた。 青舳《あおみよし》組《ぐみ》白船・沖配《おきはい》、守之介《もりのすけ》の頭を「背美の子持ちは夢にも見るな」の口伝《くでん》がよぎった、が節季は間近に迫り、年越しの金は誰もが欲しがっていた。今一つ気掛かりは、南の空が異様に暗かった。守之介は空模様を気に掛けながら捕獲の差配に取り掛かった。
鯨三頭の内、牡《おす》鯨は早々と逃げ去った。男の情の無さは、鯨とて同じだ、と誰かが呟《つぶや》き笑いを誘った。鯨組は青舳と赤舳の二組に分かれた。沖の雌《めす》鯨を青舳組が、灘《なだ》(陸側の意)の児鯨は赤舳組が捕獲に当た。勢子船が網代《あじろ》に鯨を追い込んでいた午前六時ごろ、網代の上空は暗黒の雲に覆われはじめ、小雨が寒々と降り始めた。だが海は空に似あわぬ静けさで、捕鯨には何等の支障もなく凪いでいた。
およそ三時間ほど経った午前九時頃、空は晴れ穏やかな冬日和となった。この日の空は猫の目のように変わった。急に西風が吹き始めたかと思ったら、大西に変り暴風雨と化した。それは一瞬の出来事であった。漁師は死力を尽くして逃れようと力漕した、がいかんともすることが出来ず。ようやく捕獲した沖の母鯨も、すでに持双船に縛りつけていた灘の児鯨も、綱を切って捨てるほかなかった。この時、沖にいる船は持双船二隻、勢子船一〇隻、灘は持双船二隻、勢子船六隻で、船の総数二十隻、総漁師数二百十六名であった。
各船の必死の避難の航跡は、以下の通りに記してあった。激浪暴風中での捕鯨作業の中で、すでに鯨にやられ、あるいは舷々相うって破損した船も何隻か見られる。「沖《オキ》ニアル持双船《もっそうぶね》一隻《イッセキ》、当初《トウショ》鯨《クジラ》ノ狂奔《キョウホン》セル為《タメ》船体《センタイ》ニ損傷《ソンショウ》ヲ生《ショウ》ジ、海水《カイスイ》浸入《シンニュウ》シテ危険《キケン》云《イ》ウベカラズ、船長《センチョウ》手拭《テヌグイ》ヲ以《モツ》テ損所《ソンショ》ニ挿入《ソウニュウ》シ僅《ワズカ》ニ海水《カイスイ》ノ浸入《シンニュウ》ヲ防《フセ》ギシモ、生憎《アイニク》約縄《ヤクナワ》(鯨を縛った綱)ヲ切断《セツダン》シ、身《ミ》ヲ以《モッ》テ免《マヌガ》レントスル場合《バアイ》、今一艘《イマイッソウ》ノ持双船《モッソウブネ》ハ激浪《ゲキロウ》ノタメ柁《カジ》ヲ奪《ウバ》ワレ帆航《ハンコウ》スル事《コト》能《タガ》ワザリシヲ以《モッ》テ、今一艘《イマイッソウ》ノ持双船《モッソウブネ》ヨリ漕綱《コギツナ》ヲ贈《オクリ》リ船身《センミ》ニ約《ヤク》シ力漕《リキソウ》シ行《イク》ク事数里《コトスウリ》、然《シカ》ル風波《フウハ》漸々《さんざん》暴威《ボウイ》ヲ逞《テイ》フシ、自己一艘《ジコイッソウ》スラ猶《ナオ》凌《シノ》ギ兼《カネ》ヌルヲ、況《イワ》ンヤ羽翼《ウヨク》ヲ断《タ》タレシ無能《ムノウ》ノ大船《オオブネ》ヲ引《ヒ》キシニ於《オイ》テオヤ」激浪山をなして船内を洗い、まさに沈没せんとし、進退きわまって引き綱を切ったうえ、網を投棄して、必死に三津浦へ力漕し避難した。これらは各船相似ている。
一方陸上では、三津本山見あるいは日沖山見からその様子を見ながら「幾百《イクヒャク》ノ生霊《セイレイ》、海底《カイテイ》ノ藻屑《モクズ》トナラン事《コト》ヲ痛嘆《ツウタン》シテ手足《テアシ》措《オク》ク処《トコロ》ヲ知《シ》ラス」望遠鏡でその様を見るうち、やがて風浪に流されるようにその影さえ視界から去っていった。
遭難情報は浮津本社へ急報された。援助船を出そうとしたが暴風のため出せなかった。ようやく風もおさまり、援助船が室戸港を出て紀州路に向かったのは、翌十八日午前七時であった。 灘(陸)を目前にしながら、室津から援助船の出港が出来ないことを知った三津事務所では、網船のうち堅牢なもの二隻を選び援助に向かおうとしたが、漁師は激浪暴風の中に船出するのは無謀として、これに従う者がない。たまたま浮津から来ていた数名の者が「涙《ナミダ》ヲ揮《フル》イ言《イウ》テ曰《イワ》ク、遭難者《ソウナンシャ》ハ五三《ゴニンヤサンニン》ノ少数《ショウスウ》二非《アラ》ズ、数百《スウヒャク》ヲ以《モッ》テ数《カゾ》ウベキ同胞《ドウホウ》ガ死地《シチ》二就《ツ》キシヲ視《ミ》テ、予等《ヨラ》イズクンゾ余生《ヨセイ》ヲ貧《厶サブ》ラントヤ、爰《ココ》二於《オイ》テ衆人《シュウジン》声《コエ》ヲ放《ハナ》ッテ泣《ナ》ク」こうして、米を炊き酒樽に水を入れ、網船が数十人の義侠の者を乗せて午後四時出港した。白船など二、三隻が帰港するのに会い、救援の品を与えて激励し、手羽島(徳島)に至り漂着船を援助のうえ帰港した。 また浮津浦の人々は、漁師の凍死をおそれて衣類を持ち寄り、あるいは食物を荷なって続々と三津浦の浜に集まり、浮津浦は空になった、と云う。
明治十一(一八七八)年、紀州太地浦に起きた「背美流れ」の遭難者数百八名に比べれば、七名の遭難者は少数と云えども、人命の尊さは何物にも代え難く、浮津浦は深い哀しみに沈んでいた。
合掌
文 津室 儿
絵 山本 清衣
浮津組の鯨船遭難事故の話を興味深く読ませていただきました。
返信削除この事故より少し前、太地でも事故が起こり、鯨方の廃業に陥るきっかけとなりましたが、太地の事故についてもふれて下さっているので、その粗方をここで紹介させていただきたく思います。
先ず、古式捕鯨での子持ち鯨の捕獲についての概念ですが、寛政4年(1792年)に太地より幕府直轄地の神津島役所に提出した文書によりますと、「(口語訳)いかなる鯨でも子持ち(子連れ)鯨を見つけたら、鯨船が寄り集まり、先ず子鯨に銛を突いて、知らせ綱を付けて船を引かせる。そうすると母鯨は子鯨をいたわり、介抱するようにする。そこで船の銛を段々突き鯨を弱らせ、子鯨の頭に「鼻銛」という銛を突く。陸地の方へ来ると母鯨はいつまでも慕って来るので、銛を突いたり鯨網でも掛けて捕る。これは座頭鯨、脊美鯨、児鯨も同様である。」と記しています。
また、明治11年(1878年)時の太地の事故前後の状況では、
○ 近くの三輪崎鯨方(新宮)は太地鯨方の傘下で、組織は一体化されていた。
○ 事故が起こるまでは豊漁であった記録が残っている。
○ 当時の古式捕鯨では、来鯨前に勢子船・網船船団が海上で待機していた。
○ 12月24日午後1時半頃、新宮沖で鯨を発見、先ず三輪崎鯨船が三輪崎山見の指揮で鯨網を掛けたが失敗する。
○ 那智沖で太地鯨船がそれを引き継ぎ、勢子船が太地の網代に鯨を誘導した。
○ 捕獲のため、徹夜作業となる。
○ 25日午前10時半頃鯨を捕獲する。
○ かなり沖合いに出ていて帰還が遅れたので、夕刻に鯨を捨てる。
○ 帰還途中、夜になって西からの暴風が襲来し、船が漂流する。
○ 多くの船が転覆難破し、死者が多数に及ぶ。
太地での事故については、浮津組の事故は正確に後世に伝わっているようですが、太地の場合、当時の記録とは異なる内容が広く知られ、残念に思います。
古式捕鯨では、各地で鯨船での事故が多かったようですね。とても危険な業務だっただけにそれだけに捕鯨は価値あるものと考え、当時の鯨人の誇りも強かったものと推測します。