20 名刀百足丸
刀匠正宗《まさむね》は生没年不詳である。鎌倉時代末期から南北朝時代(建武三年(一三三六~明徳三年一三九二)初期に相模国《さがみのくに》鎌倉で活躍した刀工。五郎入道正宗・岡崎正宗・岡崎五郎入道と称され、日本刀剣史上もっとも著名な刀工の一人である。「正宗」の名は名刀の代名詞となり、芸術性の高い作刀は後世の刀工に多大な影響を与えた。
さて、百足《むかで》丸の名刀は、吉良川御田八幡宮の祭式には古くから欠かす事のできない刀であった、が、今は行方不明である。刀鍛冶《かじ》の名匠正宗の名刀のため、何時も苦しめられている魔性がいた。魔性は何としても正宗を亡き者にしようと思い立った。ある日、人間に化けて正宗のもとを訪ね腕比べに挑んだ。魔性が明日の朝、鶏《にわとり》が鳴くまでに千本の刀を打ち上げたら、正宗の命を貰うという約束ができた。
魔性は早速仕事場に入ったが、夜中になっても刀を打つているような音や気配すら無い。訝しく思った正宗は、戸の隙間からそっと仕事場を覗き込んだ。正宗はその光景にあっと驚いた、が、声を押し殺した。魔性は赤々と燃える火の中から、真っ赤に焼けた鉄の塊を手で掴《つか》み出し、指で摘《つま》んでは伸ばし、また、掴んでは伸ばして刀を作り、傍らの土間に堆《うずたか》く積み上げていた。これは大変だ、と一策を案じた正宗はそっと鶏小屋に行き、眠っている鶏の止まり木に温かい湯をかけて暖めた。すると、鶏は一声高くコケッコッコーと鳴いた。魔性はこの時すでに九百九十九本作り上げていた。あと一本のところで、鶏の鳴き声を聞いた魔性は「しまった」と、云ったかと思うと、作っていた刀を小脇に掻い込み虚空《こくう》はるかに逃げ去った。この時、魔性が取り残した三本の刀を正宗が仕上げた。これを「魔性の摘み打ち」と云った。刀身には魔性の指の跡がはっきりと残っていた。柄《つか》には鶏にちなんで金鶏を象嵌《ぞうがん》し、銘は入れなかった、という。その中の一本が百足丸で幅広で長さは二尺三寸(69cm)であった。
時は下り、戊申戦争(慶応四年/明治元年1886)の会津攻めの頃、安岡某氏は板垣退助の手について出陣し山中で道に迷った。今まで判っていた道が急に判らなくなるはずが無い、と幾度か心を落ち着かせたが、どうしても判らない。尋ねる家も無く、訪れる人もない山中で途方に暮れていた。すると突然、身近で鶏が鳴いた。はてな、人里離れたこの深山に鶏が鳴くはずはない。きっと心の迷いであろう、と強《し》いて自ら打ち消した。しばらくするとまた鳴いた。
おや、確かに鶏だ。耳の迷いではない、と辺りを見回したがそれらしいものは見当たらない。半信半疑でいると、今度は二声三声と続けて鳴いた。その途端にはっと我に返った安岡某氏は、再び道がはっきりと判った。鳴いたのは刀の柄の金鶏象嵌だったという。
その後、百足丸はお宮に納めてが、いつの間にか安岡家に戻っていた。有る時、羽根の某質屋に質草として入れた。予てより百足丸の伝説を聞いていた質屋は、この刀を蔵に入れ厳重に施錠し、番頭と二人り、蔵の前で不寝番をした。その夜の丑《うし》三つ時、俄に蔵が鳴動した。あまりの恐ろしさに番頭はひれ伏したが、気丈な主人は施錠を解き中に入る。百足丸は忽ち本性を現し、身の丈一丈(3.3㍍)を余る大きな百足の妖怪となり、蔵の窓より飛び去って行ったという。伝説の真意はともかく、こうした面白い伝説をもった刀が行方不明とは誠に残念である。
阿緒の城主
現在の吉良川小学校辺りを阿緒《あお》と云った。その東北を古城と呼ぶ。戦国時代の頃、この古城に阿緒の城と呼ばれる砦があり、東の安岡弾正と争って屈しなかった。しかし、一城の城主とはいいながら、青春の血に燃える若い城主は、遠く浜辺で打つ盆踊りの太鼓や鐘の音を聞くと、何かしら満ち足りぬものを覚え、戦から戦へ明け暮れて人を殺し血を流す自分たちの生活に、言い知れぬ寂しさ・無情を感じた。氷のような月光に誘われ、ふらふらと盆踊りを見に忍び出たまま、城主は再び帰って来なかった。阿緒の城はその夜の内に、安岡弾正の一子源兵衛に落とされた。安岡弾正も、その後長宗我部元親に降り、吉良川に土着した、が、安岡家には、後々阿緒の城主の祟りが絶えなく一宇《いちう》(お堂)を建立してこれを祀り、今に繋がっている、という。
文 津 室 儿
絵 山 本 清衣
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小学生の頃、御田神社の神主から聞かされた百足丸の伝説を思い出し、調べてみたところ此処に辿り着きました。その神主さんの話では約80年くらい前に吉良川の山中で百足丸らしきを発見したことがあったらしいのですが、何かに挟まってて持ち運ぶことができず、場所に目印をつけてその日は家に帰ったそうです。翌朝村人らとその場所に行くとやはりその刀は無くなっていたそうです。お陰様で子供の頃に聞いてワクワクした百足丸の話を思い出し、あの頃のようにドキドキしながら文章を読ませて頂きました。ありがとうございました。
返信削除小学生の頃、御田神社の神主から聞かされた百足丸の伝説を思い出し、調べてみたところ此処に辿り着きました。その神主さんの話では約80年くらい前に吉良川の山中で百足丸らしきを発見したことがあったらしいのですが、何かに挟まってて持ち運ぶことができず、場所に目印をつけてその日は家に帰ったそうです。翌朝村人らとその場所に行くとやはりその刀は無くなっていたそうです。お陰様で子供の頃に聞いてワクワクした百足丸の話を思い出し、あの頃のようにドキドキしながら文章を読ませて頂きました。ありがとうございました。
返信削除もしかしたら百足丸の行く末として有力情報です。
返信削除私の曾祖父は日本海軍で、指揮棒がわりに名刀「百足丸」を使っていたと祖父から聞きました。
もしかしたら百足丸の行く末として有力情報です。
返信削除私の曾祖父は日本海軍で、指揮棒がわりに名刀「百足丸」を使っていたと祖父から聞きました。
しかし、GHQに奪われないよう、その刀を祖父と兄がへし折ってしまったとのことでした。
その刀は、かなり人の血を吸った名刀らしい、と、近年亡くなった祖父から生前きいておりました。
私の亡くなった父は海軍でした ムカデ丸の名前を父から聞いた記憶あります
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