2012年7月1日日曜日

室戸の民話伝説 第25話 水掛け地蔵の由来・室戸岬


                 絵  山本 清衣

水掛け地蔵の由来・室戸岬


 そりゃずーっとずっと、昔のことじゃった。東寺(最御埼寺《ほつみさきじ》)に、ざまぁ偉いお住《じゅっ》さん(住職)が居った。春の彼岸の夜に岬の沖を眺めよった。月の無い闇の晩じゃったが、沖の方に白い波頭《なみがしら》が立ったと思うたら、その中から青白い火の玉が出たそうな。それが満月よりちくと大きい火の玉じゃ。その火の玉を不思議に思うて見よったら、青白い火の玉は二つに分かれて岬の東と西へ飛んで行った。それがまた二つ、三つと分かれて、西は津呂の港、室津の港、行当岬へと飛んで行き、東は高岡や三津、椎名、佐喜浜へと分かれて飛んで行った。お住さんは、これはどうも精霊《しょうりょう》(死者の霊魂)の御霊《みたま》のように思った。よくよく考えたら、彼岸に水死したナガレカンジャ(水死人)の御霊が、それぞれ古里の港々へ帰りよる集団じゃないかと思うて、こりゃどうしてもお祀りをしてやらねば、海で死んだ人たちの御霊は浮かばれんじゃろうと思った。岬の石を集め、少しの飾り物を施し、祀り物を供え、荒縄をしめ縄代わりに飾り、藁葺き小屋を建て、そこにナガレカンジャの霊と位牌を作ってお経を唱えていた。するとナガレカンジャらの霊がやってきて、小屋の周りを夜通し廻っていたという。これじゃカンジャの供養は一人では出来ん。皆で一緒に精霊を祀ろう、と東寺の檀家に相談すると、大方の人は賛成して幾分かの喜捨《きしゃ》をしてくれたが、高岡に一人の天の邪鬼《アマノジャク》が居た。「なにごとや。お前、海で死んだち、家でちゃんと法事をして祀りよるじゃないか、別に岬にそんなものがいるか!」と云う、「いやそんなことはない。あるきん言い寄る。今年の秋の彼岸に招待するきん、一晩、小屋に泊まって見んせ」と云うことにした。秋が来ると、一升徳利を片手にやって来た。儂《わし》が退治しちゃると云って小屋に入った。そしたらお住さんは念仏を唱えてながら、「儂はこれからお寺へ帰るきに、お前《ま》や朝までゆっくりしていかんせ」と云って帰った。一人になると気持ちが悪いもんじゃ。「なにがさようならじゃ、ええくそ、あの糞坊主めが」と悪態をつきながら、酒をちびりちびり飲みよったが、気が進まんと一人居るもんじゃきに、ちょっとも時が進まん。その内に徳利を空にしてしもうた。その内、酒の酔いに誘われ寝てしもうた。一口寝てふと目が覚めたら、静まり返った気味の悪い晩じゃ。余り静かすぎて妙なねゃと思いよったら、沖の方から潮騒の様な音がしはじめた。ありゃこりゃ気のせいじゃろかと考えよると、かえって気が集中し澄んでくる。だんだん潮騒が大きゅうなり、ギーギイッと音がしはじめた。櫓を漕ぐ音じゃ。ありゃ今時分、岬の磯に舟がおるはずがないがと思いよると、にわかに波の音が高うなってドッシーンっと、舟が岩へ突き当たったような音。「ウワーッ、助けてくれーっ」と大きなおらび(叫び)声がする。
(さあこりゃ、いよいよナガレカンジャとか云うもんがやってきたか)と思いよったら眠気は一ぺんにふっ飛んでしもうた。そうしよったら今度は、「おーい、早よう来てくれーッ! ひやいぞー、水をくれ!」と外からも声が聞こえ出した。そうしよる内に、だんだんと声が近づいてきて、仕舞には何十人という人の足音が、小屋の周りをぐるぐる廻り出した。
 天の邪鬼の男は、宵には偉そうに言いよったが背筋がゾーとしたとか、こんもうなってしもちょった。そうしよると、わんこらわんこら話しよる。その話し声の中に、たしかに自分の知っちょる人の声も聞こえたそうな。(ありゃ、たしかに舟で死んだ隣りの奴の声に似いちょる。彼奴《あいつ》は鮪《しび》(マグロ)釣りに出て、もんてこんき葬式をして弔った奴じゃったが!。海で死んだナガレカンジャ達の声じゃ。お住さんの云うこたあなぶられんなあ・・・・)と思いよったら、今度はそれが潮が引く様にさーっと引いたかと思うと、元の静けさより、さらに静かになったそうな。
 おーやれやれ、もう夜が明けるかと思って壁の隙間から、外を覗くと外はまだ真っ暗がり、それからまた暫くしよると、今度は大勢の得体の知れん群れが小屋の方へ近づいてくる。今度はもうたまらず、耳をふさいだ。だが耳をふさいでも声は聞こえる。それならもう仕様がない、なるようになれと度胸を決めた。小屋のぐるりを廻りよる声の中に、こんなことを云う声が聞こえた。
「儂はのー、海の向うに極楽浄土があると云うき、この岬から船出したが、岬の沖にゃなんにもない。それで餓えて死んだのじゃが、年に一、二回、この岬の水をもらいたいと思うておハナへ来るが、おハナに近づくと岬の海の餓鬼亡者らが邪魔してどうしても近寄れんかった。今晩はどうしたことか、邪魔する亡者の姿が見えんき、ようようやって来た。こりゃどうもこの小屋の中に、とても徳の高い聖がおって、有り難いお経を唱えてくれたので、その亡者どもも餓鬼仏も成仏さしてくれたんじゃろう。何年も何年も、このおハナにもんて来て久しぶりに仏様のお水がもらえる。長い間の渇きが癒える。有り難いことじゃ」
 それで、むかし親父さんに人は死んだらどこへ行くぞいと聞いたら、海の向うの極楽浄土へ行くと云いよったが、海で死んだ人の魂は岬や自分の所の港へ帰りたがるということがようわかった。人の云うことは嘘じゃない。海で死んだ人の霊は一番近いこの室戸のおハナを目指して帰って来るのじゃろうー。そして自分の在所へ帰るらしいーと気がついた。そこで「ナム大師ヘンジョウコンゴー、ナム大師ヘンジョウコンゴー」と一生懸命唱えているうちに夜が明けていた。「よんべはどうじゃったぞな」と云うて、お住さんがやって来た。「いやお住さん、どうもこうも・・・。この前は失礼なことを云うて、夕べは何ともはやいよいよ恐れ入りました」お住っさん「ほんならお前は夕べ逢うたか」「逢うたどころじゃございません。」実はこうこうじゃった、と一部始終を話した。お住さんもびっくり。「儂もナガレカンジャに逢うたことはあるが、常世の国の御霊には、まだ逢うたことはない。あんたは儂よりは本当に死んだ人の霊を導く純粋さがある。その人々の霊を得心さす純粋さがあって仏生が出来ていたのじゃ」と、云ってお住さんは天の邪鬼を拝んだそうな。それから天の邪鬼はこりゃこうしておれんと云うて、東寺の檀家を一軒一軒まわって自分の体験を話して、ナガレカンジャや常世の国の人たちが年に二度おハナに集まる春秋の彼岸参りの依代として「水掛け地蔵」がおハナの先端近くに建ってられた。海水を飲み苦しみ死んだ魂に、少しでも癒しになればと真水を手向け、魂を和らげるため!。     

                            文 津 室  儿
                            絵 山 本 清衣 
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