2012年4月4日水曜日

二つの丸山

          二つの丸山
  久しぶりに津照寺《しんしょうじ》にお参りした。津寺山(丸山)の誕生は、弘法大師が昼飯のために四十寺山《しじゅうじさん》に腰をおろしたことに由来する、という。筍皮で包んだオムスビを開いたとたん、一つが東に転がり三津の丸山に、今一つは西に転がり室津の丸山となった。大師は三津には神の依代を、室津には仏の依代を築き神仏習合思想を表し、日本人特有の穏やかな宗教の拠り所とした。
 大師の意に反して 神仏分離令が明治初年にでた。これを歪曲した者の排仏毀釈運動は、嵐となって全国津々浦々に吹き荒れ寺院や仏像などあまたの文化財を破壊した。この津照寺も例外ではなかった、と住職は歎く。
  本堂への石段は百八段の煩悩坂、右に少し折れて十七段の俳句坂とか、煩悩坂の中腹には「久方の空より船や花曇り」北川史川の句碑があった。計百二十五段を登りきれば、ご本尊の楫取《かじとり》延命地蔵菩薩が向かえてくれる。このご本尊は慶長七年(一六〇二)、難破しかかった藩主山内一豊公の船を救ったという話を遺し、今も海難除けの楫取地蔵として厚い信仰を集めている。
  本堂から振り返れば、室津港の眺めが楽しめる。空も海、史川が詠んだ俳句の景色が広がっていた。
                                                       (儿)
             高知新聞「閑人調」掲載

5 件のコメント:

  1. 我が家にも古い小さな首無し地蔵があります。江戸期のものですが、廃仏毀釈で首を壊されたとのことです。
    もう一つ、我が家の先祖の息子が、早世した自分の娘のために建てた2mほどの六地蔵があります。年代を見ると、「貞享元年(1684年)三月二十八日 寄主和田与市郎」とあり、この前年、土佐の津呂浦鯨方頭首、多田吉左衛門が私の先祖と対面しています。この六地蔵を建立した頃は土佐の捕鯨技術が導入された結果、大豊漁でした。
    現在は、初盆の家が送り火を行った後、この六地蔵を詣る仕来りがあります。

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    1. 匿名  様
       コメントありがとうございました。
       京都の、とあるお寺に井戸が有リ、その又そばに六地蔵がある、とのこと。その六地蔵の一体が、井戸を黄泉平坂がわりに地獄の様子を窺っては、お釈迦さんに伝えるとか。
       そのお地蔵様に、一度黄泉国の話しを聞かせて貰いたく思っていますが、未だ機会がありません。  
       いやいや、何れは自分の目で見る事が出来ますね。いそがないいそがない、ですか。

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  2. 先にコメントをした者です。
    「津室儿」様は「高知新聞」の「閑人調」で、執筆されたものを掲載されたものを当ブログで掲載されておられるようで、すばらしい内容だと思います。
    私は捕鯨史を調べる者ですが、土佐の捕鯨史については今一つ理解できていません。そこで、「閑人調」あるいは当ブログで、土佐捕鯨の成り立ちから近大に至ってからの終焉までを、特集で掲載して欲しいと思います。
    正しい歴史を伝承して下さることを希望します。

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    1. おはようございます。
       今朝は、思いがけずも身に余る提案を頂き恐縮の極みです。
      「土佐古式捕鯨の成り立ちから近代に至ってからの終焉までを、特集で掲載」を、との提案、正直に申上げて非常に嬉しく、気持ちが高ぶっています。何時かは書きたい、書きたい、と思いつつ今日に至っています。だらしなく、お恥ずかしい限りです。
       さて、寛永元(1624)年に始まった土佐古式捕鯨を顧みますと、約400年の歴史。
      書くとして、史実に基づき忠実に書くか、フィクションを交えて面白く、読み物とするのか⁉ 迷いぱなしで今日に至っています。
       ただ、今月21日から5月12日頃まで、留守に致します。帰宅後、と言うことでお許し下さい。その間、少し考えてみます。
       ご指導のほど宜しくお願い致します。

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  3. 先のコメントで誤字がありました。すみません。「近大」は「近代」の誤りです。また、「執筆されたものを掲載されたものを」としているのは「執筆、掲載されたものを」として読んで下さい。表現上の問題でした。
    私の思いをぜひ、お願いします。

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