吉良川老媼夜譚 35-0〜2
はじめに
この「吉良川老媼夜譚《きらがわろうおうよばなし》」は、高知市出身・詩人で民俗学者の桂井和雄氏が昭和十九年六月と八月の二回に渉って、室戸市吉良川町の近森菊代さん明治元(1868)年生まれ(当時八十一歳)から採訪したものである。
桂井氏は、これを「吉良川老媼夜譚」と題する小稿に纏め、「招集されゆく自分の最後の記念として東京・日本常民文化研究所に送り」として、昭和二十年一月佐世保の海兵団に入団している。
かくして終戦後、最初の採訪から四年後の昭和二十三年七月十三日に至って、再び採訪の機会に恵まれ、近森菊代老媼宅を訪問する、と菊代老媼は溢れるばかりの喜びを示して迎えてくれた、と記している。
戦争の最中に始まった採訪も四度を経て、再び吉良川老媼夜譚を補足、脱稿して、「仏トンボ去来」(高知新聞社)に上棹したものである。
なお、読者には、大変に読み辛いかと存じます、が明治元年生まれの菊代老媼の息遣い言葉遣いを感じ取って頂ければ幸いに存じます。
身の上話 35-1
私は明治元年九月十五日生まれですきに、ことしで八十一歳になりましたが、十八歳の時高知へ出て、板垣退助さんの所で女中をしていたことがございます。半期《はんけ》ばぁ勤めましたが、窮屈じゃったので、無理に暇を貰うて、高知の川崎さん(当時の高知の富豪)で番頭をしあげたという古市常蔵さんという人が、納屋堀《なやぼり》で宿屋をしよったのに雇われて女中をしたことがありました。
二十歳で吉良川へもんてきて嫁ぎましたが、その時、主人になる者は大阪通いの機帆船の船長をしよりまいた。一緒になってから、しばらくして船をやめて、木材やら薪、炭の仲買のような仕事をしよりましたが、四十九歳で死にました。わたしは三十八歳でしたが、寡婦《やもめ》になってからは、遊びよってもいかんので、十年ぐらいの間、この家で木賃宿《きちんやど》をしました。宿屋をやめてから、家をお医者さんに貸したりしてのんきに暮らしましたが、今までにお伊勢さんへは三度、高野山へは四度、出雲へは一度、紀州の加多の淡島さまへは一度、それから東京やら熱海やら京都や近江へも行きましたし、九州へも大分やら別府やら八幡と何度も行きましたし、大阪へも娘が嫁入っちょりますので、家のようにして何度も行ったもんでございます。
息子は介太郎というて、もう五十歳を超しちょりますが、今九州の八幡で時計屋をしよります。嫁にやった娘二人は先に死んで、ここでは孫娘と二人で、仕送りと百姓でのんびり暮らしちょります。姪や甥が、大阪に居るもんですきに、時々大阪へも遊びに行きよりましたが、このごろは乗り物が不自由であぶないきによう行きません。
板垣退助さん 35-2
板垣退助さんのお家は、その時分は潮江の新田という所にあって、そのお家は昔はお能の舞をしよった、という随分広い大けな家でございました。前に鏡川が流れていて、日の暮れに戸をたてる時にゃ、長いことかかったことを覚えちょります。
板垣さんはその頃、六十代のお人じゃったと思いますが、長い髭をはやした方で、若さまの鉾太郎さまという方と、東京のお嬢さまのおえんさまと、副妻の小高坂の宮地まさのさんという方がおられて、本妻さんはお子様が無うて、たしか唐人町の別荘におられたように覚えちょります。
まさのさんの他に、私の居る内におきぬさんという新しい綺麗な副妻がこられましたが、この人は妊娠しちょって男の子を産みました。板垣さんがその時、儂《わし》にゃ孫みたいなものじゃというて、孫三郎とつけられました。ほかに女中やら書生もおりましたが、門脇の家には名前を忘れましたが、夫婦暮らしの人が居ったように覚えちょります。
玄関には大きな鉦《かね》が吊しちゃあって、人が来たらそれを叩いてもらうようにしてありましたが、自由党の髪を長うに伸ばした生徒(書生)みたいな人らが、椎の下駄を鳴らしてよう来よりました。
板垣さんという方は、えろう(大変)あっさりした人で、勝手元へ来て、「菊」というふうに呼びつけにする人でございました。ある時、私が急に雨で外の薪を入れよりましたところが、それをご覧になりよった板垣さんが、菊はなかなか力が強いきに、今度のニロギ釣りにゃあ船子に連れて行ちゃるじゃいうて、冗談を言われたこともございます。
かんしょ(潔癖)でございましつろうか、お手水へ行かれて手を洗う時には、かなつぎ(鉄瓶)いっぱいの水で、それが無うなるまで、何べんも手をもんで洗われました。そのかなつぎを持って行くのが私の役で濡れた指でちょっと私の頬《ほほ》をついたりしたこともございました。
食べ物は、卵の半熟と鮎の塩ふり焼きがお好きで、三度三度かかさずおあがりになりました。上女中になると、そのお給仕をしたり、御寝《ぎょし》なさる時のお寝間を敷いたりせんといかんので、妙に気苦労でいやでございました。御寝なさるのは、いつも二階で、下では鉾太郎さんが寝られました。
枕元には、いつでも大小(刀)とピストルを揃えて置かれ、それに龕燈《がんとう》(仏壇の灯)提燈と桐の箱に入れた溲瓶《しびん》を用意せんといきませんでした。鉾太郎さんも同じようにされました。
溲瓶は、毎朝前の川(鏡川)へ持っていって、砂を入れて洗わんといかんことにしておりました。
写 津 室 儿
吉良川は町並みが綺麗に保存されているところですね。関東のテレビでも何回か紹介されていました。お世話になった先輩が市民表彰をされたことを知りました。県女大のゼミのブログで雛祭り等を大切に保存し伝えられていることも知り感動しています。
返信削除私事になり僭越ですが、軍属で戦死した、父の兄、の嫁、伯母兼氏は明治28年久礼生まれですが、若いとき、後藤象二郎の実家に行儀見習いに行ったとご本人から聞いたことがあります。昔はしかるべき家に養女として入ることもあったのではと思います。