吉良川老媼夜譚
奉公の習慣 35-3
昔の吉良川の習慣では、今の五十歳ぐらいの人の若い頃まで、若《わか》い衆《し》も娘も、いっぺんは他人にかかっちょかんと、ういみず(註、人生、世渡りの苦労)が分からん、娘じゃったら嫁に貰い手がないというので、どんなお大家《たいけ》でも自分の家へ人を雇うちょいて、子供を赤岡や高知へ奉公に出したもんで、この奉公人のことをオトコシ・オナゴシというて、私は前にお話した通り、十八歳の時に高知へ奉公に出たものですが、家を出る時には、風呂敷に身のまわりの物を包んで、親に連れられて草履がけで行ったもんで、前の町長さんのお父さんも奉公に出ていたことがあります。
奉公先では、一年に二度は必ず家へもどしてくれることに決まっちょって、二月に行ったら八月にもどれるというように、半期半期になっちょりました。オナゴシのもどる時には「前垂《まえだれ》れ捲《まく》り」というしこな(綽名《あだな》)がついちょって、この時にも親が連れに行き、奉公先へいぬる時にも親がついて行くというふうでございました。
高知へ行ちょる者の着替えじゃとか、その他の大きな荷物の送り返しには、村から高知の納屋堀へ入ってくる生船《なまぶね》という、生魚を積んでくる和船に積んで貰うたものでございました。オナゴシの賃金は、そのころ高知で浅井、川崎じゃいう大金持ちの家でも、食べらしてもろうて月が一円くらいのもので、私は板垣さんの家では一円五十銭もろうて、それがずいぶんの高賃取りでございました。普通は五十銭から八十銭というところでございました。お米が一升五銭、麦が三銭、お酒が八銭、お豆腐一丁八厘が高いと言うたりした頃のことで、菎蒻《こんにゃく》は三厘でした。米が闇で一升百何十円、酒が一升何百円じゃいう今の時勢は、夢にも思えんことでございました。
高知への旅 35-4
前にも話した通り、昔は今のようにバスがあるじゃなし、みんな草履《ぞうり》がけで、荷物を振り分けにして、ごつごつ(註、ゆるゆる)歩いて出かけたものでした。羽根の中山峠(羽根、加領郷間)を上がって大山峠(安芸市伊尾木)を過ぎ、赤野の八流《やながれ》の山の迫った狭い砂浜を、日盛りにごくごく(註、死に物狂い)踏んで行ったもので、夏の日などは足が焼けるようでございました。それで、
新城八流砂漕ぐ時は 親にぜひない妻恋し
という唄もあったくらいでございました。
足の早い者は赤野までの十一里ばかりを歩いて、ここで一番の宿屋のハチイチ屋というのに泊まったもので、女の足などでは早い者でも吉良川から八里の安芸の町で泊まるのがせいぜい、フジヤとか堺屋じゃいう宿へ泊まるのがええ方でした。
第二日目は、手結山。ここは江藤新平さんとかいうえらい人が土佐へ逃げて来られて、甲浦の方へ行かれる途中(琴風亭《きんぷうてい》)休んだところじゃと聞いちょりますが・・・。これを越えて、海岸をつけて(沿い)物部から稲生村の下田へ出て、そこから屋形船やら蓙《ござ》船に乗って高知の下の新地へ着いたもので、新地では得月楼の夜の提灯がついていたりして、初めて田舎から出たときには、びっくりするばぁきれいに見えたものでございました。
こんなに交通というもんが不自由でしたが、私が二十二歳の時でしたか、甲浦通いの汽船がきて、村の浜(吉良川)の沖で汽笛が鳴ると、山犬が鳴いたというて、村中がびっくりしてわんわん言うたものでございました。それからずっとして、安芸まで馬車が通うようになり、自動車が通るようになり、今のように日に何回もバスが来るようになって、ずいぶん昔と比べたら楽になったもんでございます。
坂迎え 35-5
こんなに旅と言うもんが億劫《おっくう》なもんでしたきに、村の者が讃岐の金毘羅さんへお参りにとか、お四国にいて戻ってくるじゃとか、息子が初めての遠い旅に出て無事に戻ってくるじゃいうと、その日を「坂迎え」じゃ言うて、隣近所の者が寄ってたかって、戻る者の家の前に、徳利を逆さにして目口を描いて人の顔にこしらえ、麦藁《むぎわら》でその体を作って、それに手拭いをかぶせ、帯を結ばせたりして門に立てらし、必ず大きな椿の木を伐ってきて立て、女の綺麗《きれい》な帯を二つばあ竿に紐《ひも》でくくって下げて立てて迎えたりしたもんでございます。三方《さんぼう》に酒肴を出し、酒を飲ましたりしたもんで、こうすると帰って来る者の足が軽うなると言うたもんでございます。
写 津 室 儿
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