2013年3月21日木曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 若い衆・嫁かたぎ 35-11〜12 


  室戸市 吉良川老媼夜譚 五 若い衆・嫁かたぎ  35-11〜12
 
 私が明治十二年ごろの小娘のころには、まだどこの家でも松を焚いて明かりとしていましたので、若い衆らはその明かりで髪の結いやいこをしたりしよりましたが、その時分の若い衆のことは文句の言い手がもうて、野に生《な》ちょる琵琶でも蜜柑でも柿でも黙って取って来て分けてくれたりしたもんで、村のどの家でも若い衆に取られたち平気でございました。
 小松の奥さん(当時の吉良川の豪家《ごうけ》の主婦らしい)が、夜便所に出てみると、若い衆が二人、庭の柿をちぎりよって、「お前らちぎりよるかえ」というと、足下へ「どしん」と落ちてきたなどという笑い話さえあったほどでございました。髪結いの明かりの松明《たいまつ》を持ってやったりすると、喜んで、野良の生り物を持って来てくれたりしたもんでございます。
 こんなに若い衆が勝手をしても、人に文句をいわれざったのは、村の不意の事にはこの若い衆らが一番先に飛び出していて、一生懸命骨折ってくれたからで、部落でも大切にせにゃならざったからでございます。
 よそから若い衆が嫁を貰うたり、よその若い衆を養子に迎えたりすると、「宿入り」いうて、若い衆に酒をやったり、お客に呼ばんといかんことになっちょったほどでした。
 若い衆らの平生集まる所は「寝宿《ねやど》」というて、吉良川の町分には、上・中・西・停士《ほうじ》の四組に分かれて、その宿はお婆さんだけが居るような家をたのんで、世渡りするまでは毎晩集まって、わいさら(註、わいわい)いうて寝泊まりしたもんでございます。男児は十五歳ぐらいからこの宿に入ったと思いますが、その時も「宿入り」いうて、親が酒一升ほどを持たしてやったものでございました。

   嫁かたぎ  35-12
 昔は今のように無い、町に料理屋があるじゃなし、夜になったら村の娘の家へ隣村の羽根からも室戸からでも歩いてきて、夜更けまでただわいさら言うて暮らして、いうたら話にならんほどじゃったことは、前にも言うた通りでした。
 そうしたわいさらの内に、かかりの娘と若い衆ができると、わきの者はつつかんことになっていたので、我ら同士好きやいなら親も仕方のう一緒にしたもんでございました。
 その時分は「嫁かたぎ」いうて、若い衆が好いた娘を朋輩に語ろうて、無理にに連れてくることが平気で行われて、娘の方でも担がれるということを頭に置いて担がれたもんで、親のいい通りの縁づき三分に、担ぐが七分という調子で、順調に嫁入りするというのが不思議なほどで、私らあも走った組でございました。
 娘に気がのう(無く)ても、男の方で好きになったら、娘の外出の時を狙うて、寄ってたかって若い衆が担いで、宿へ連れていて、付け届け(註、娘の親に担いだ事を知らせる)をしちょいて、そして土地のチュウコ(仲裁役?)かトシバイ(年長者)の者が仲に立って、その人に免じて、嫁にくれにゃあならんようになっちょりました。
 隣村の知りもせん家の娘を担いできちょいて、「医者にかからにゃあ坊主がかかれ」じゃいうて、人が大勢仲に立って貰うたりすることもありました。
 それが泣く泣く来ても、一生居着くようにもなるし、好きで来ても暮らしぬかん(徹す)嫁もあったりして、世の中は妙なもんよ。 きょうび(現今)は、料理屋じゃ言うもんも出来て、そんなややこしいことをせんでも結構すませるようになりました。
 普通の嫁入りじゃあ、村のもんが嫁見じゃいうて、祝言の座敷を寄ってたかって覗きこんだりするのは、どこも同じでございます。三里奥の長者野という所では、すぼ(苞・藁包み)で嫁さんの腰をぶっ叩くじゃいうこともありました。古い格式をいう家では、披露宴の座で「姑盛り」いうて、本膳へつけて姑がご飯を盛るじゃいうこともありました。
 赤岡へんでは、嫁さんを貰う家へ町の子供らがつめかけていて、提灯とローソクを貰い嫁を出せ嫁を出せいうて押しかけて、嫁さんの顔のはたへ提灯を寄せ付けて、「嫁を見よ嫁を見よ」いうて騒いだりするのがありました。それから「床入り」いうて、若い衆が新夫婦を連れていて寝さすじゃいうこともありました。

                          写   津 室  儿
          

1 件のコメント:

  1. 平成の初め、昔話を社長のM氏がしてくれました。
    …昔はよございました。
     娘さんの枕元を、そよっと風が吹いて過ぎる、
     それだけで子どもができたものです。
     わっーははは!…

    最近は少子化というよりも先に若者が結婚しなくなりましたね。
    どんな時代になるのでしょうか。

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