2013年3月3日日曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 町の家・昔の女の服装  35-6〜7 


  吉良川老媼夜譚 三
  
  町の家  35-6
 昔から「唐ノ浜のダイダイ、吉良川の石グロ」というて、安田町の唐ノ浜には家ごとにダイダイを植えてあるのが目に付き、吉良川では石グロ言うて、丸石を積んだ土塀があることが目に付きます。これは家が浜に面して風がえらいからで、今じゃこの町分のおおかたが瓦葺きになっちょりますが、私らの子供の時分は、町の全部の家がクズヤ(註、草葺き屋根)でございました。
 だいたい、この町分の家がこじゃんとしたものになったのは、薪や炭を大阪へ積み出す船持ちが始まりで、この町分は昔から地味なところで、物見花見もあんまりせんと、むくる(働く)一方で、それでここでは、ほかの漁師町のように質屋が立って(註、成り立たない)いけません。金持ちの旦那じゃいうても、大なり小なり畑地を持って百姓をしたりして、よう働きよります。
   
  昔の女の服装  35-7
 私らの娘の頃は、着物というてもみんな家で織った木綿の縞物を身に着けちょったもんで、帯は普段には下がり帯いうて、四寸五分幅の物を二つ回して、一括りして垂らしちゅあったもんでございました。
 着物の一番ええもん言うても、銘仙《めいせん》、南部縞《しま》、秩父銘仙じゃいうもんで、こうと(地味)なもんで、私の十八歳の時にお宮参りじゃいうて拵えた越後の帷子《かたびら》を、今出して仕立て直して着よりますが、ちょっとも可笑しゅうない程の物でございます。普通には、なら(奈良絣《かすり》)じゃいうのを着たりしよりました。よそ行きの帯はお太鼓でございました。 履きもんは、せきだ(雪駄)というて、裏に金を打った物でした。ちょっと上等になると、宮参りに桐台、のぶ台、神戸台などというのを履いたものでございます。こんまい(註、小さい)子供の頃には、表に竹の皮の織ったのを貼った松台の長浜下駄というのを履いたもんでございました。足袋は木綿の紐つきで、小鉤《こはぜ》(留め具)がけじゃいうもんは、その頃はありませんでした。
 髪の形は、娘はみんなちょうちょに結うて、色の綺麗な飾りをかけ、簪《かんざし》を挿したりしました。四十歳ごろには栄螺《さざえ》の壷焼きじゃいうて、もつう(捲く)て頭の上に載せる髪を結うておりました。年寄りは皆さげしたいうて、こうがい(笄)で巻いて下で輪にした髪にしちょりました。こんな髪は、鬢付《びんつけ》けと元結《もっとい》(註、髻を結ぶ細い緒)が無かったら結えんもんで、バイカという油なども使うたりしました。油徳利で一合なんぼで町の荒物屋で買うてきたもので、毎朝金盥《かなだらい》へお茶を入れちょいて、布片で髪をのしちょいて使うたものでした。
 明治二十七、八年頃から三十年頃には、まだ、嫁入りした女はみんな鉄漿《かね》(註、おはぐろの液)を付ける風《ふう》(習わし)があって、それで年をとった女が鉄漿《かね》を落とすと面白いというて、私が落としておりましたら、男の舅に白歯で居るもんじゃないと言われたもんでございました。娘でも嫁入り前につけてゆきました。その頃は世渡りも早うて、十三歳で嫁入りしたりする者は、奥の西山あたりでも多いもんで、十八、二十歳じゃいうと、もう遅いように言うたもんでございました。
 鉄漿を作るには、かなはだいうて古釘の焼いたものへ水を入れて、ご飯か麹《こうじ》を入れて置いたら、ぶすぶす煮えてきました。それをかね筆というて鶏の羽で作った筆ににつけて、五倍子《ふし》(註、ヌルデの若葉・タンニン材として薬用・染織用に用いた)の粉をねぜっちゃ(練る)塗り、塗っちゃ唾を吐いてつけたものでございました。五倍子は奥の人が売りに来ました。鏡は手鏡いうて金で作った物で、嫁入って来るときに持って来ましたが、これはよう曇るもんで、時々研ぎ屋が来て研いでくれたものでございます。
 女が白歯になったのは、明治四十年過ぎてからのことのように思います。それから、女がお腹へ子がはいったら、五ヶ月目に眉を落とすことになっちょいましたが、その時には亭主の膝で剃ってもらうものである、と言われていました。
 嫁が亭主の膝で、眉を落としてもらうひとときは、至福の時であった、と言われたようでございました。
 私も亭主の膝がこいしくて、その時が待ち遠しくてなりませんでした。

                           写 津 室  儿
          

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