2013年3月12日火曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 学校・娘のころ・梅毒の手術 35-8〜10 


 第38話 吉良川老媼夜譚 四
   学校 35-8
 私たち明治元年生まれが、初めて学校へ行ったもんで、初めは八級(義務教育期間は当初八年制度であった。その後四年制となり、就学率の上昇を待って現在に続く六年制度となる)から入りましたが、しつめる(いじめる?)『読者の註、(しつめる)とは、まじめに続ける、とか、かかりっきりになる』じゃいうことはなく、人が笑うじゃいうて隠れていたもんでござました。そして、学校へ行くのも、紺屋へやる糸のエブ(目印・紙札)を書くとか、百姓の家じゃったら、籾俵《もみだわら》のエブを書けるくらいになりゃあ、ことが足りると、思うばあのもんでございました。
 学校ができる前には、お医者さんや士族の家へ読み書きを習いにいたもんでございます。今のようにない、ほんの真似ごとぐらいのことでございました。

   娘のころ 35-9
 娘のころを思うと、楽しいものじゃったと
思います。きょうの日が面白うて暮らしたもんで、百姓仕事も至極のんびりしていて、田へは草を刈って入れて、浜から拾うてきた白石を窯で焼いて灰(焼石灰)にして撒いたら、今のように肥料じゃ何じゃいうて心配することも少のうて、できたちできざったち平気で、発明というものが無かったので、ただ面白う暮らしたいという気持ちで、七日の祇園様、十日の金毘羅様、十五日の八幡様というふうに休みが続いて、こんな日には酒を飲んで、娘のある家へは酌をとりに来てくれというて雇いに来て、娘の親もそれを喜んで出したもんでした。そこの席へ出たら、あとで「花」じゃいうて、お金や篠巻《しのまき》(笹巻き鮨)を一把ずつくれたもので、これも楽しいものでございました。
 とくに八月十五日の八幡様の夏祭りには、神祭の宵からしまいまで、若い衆宿へ手伝いに行かにゃならざったもんで、これには町の区毎に花台(山車)が出て、その行列の一番先に曳き船いうて、きれいに飾った船を曳いて行くのがあるので、その飾りつけやら準備に出るためで、この花台にはローソク代だけでも五十円、七十円と要ったので、そんな費用をつくるには、一戸割り当ての他にシツギ(宮への奉納金?)というて別に金を出さねばならざったし、そのためには大阪行きの炭や薪を帆前船に積み込む仕事を請けて、男女で手伝うて何百円もの金を儲けて出したりしたもんでございます。
 そこで、娘のある家で、宿(若い衆宿)へ手伝いに出すのを嫌がったりすると、その家は「省《はぶ》く」いうて、若い衆から勘当同様にされたもんでございました。それで、娘という娘が皆出て、神祭当日には、曳き船の綱につかまって地下地下で御神輿を回したりして大騒ぎしたもんでございました。
 今と違うて、若いもん同士の間が雑なもんで、麦でも米でも機械で搗《つ》くじゃいうことが無かったので、皆食べるばあずつ、毎晩娘等が搗《つ》いたので、唐臼《からうす》(坪に埋め込まれた臼)のある家へは、娘等が寄り集まって、「搗き合」いうて搗きました。そんなところへは若い衆が話しに集まってきて、のんきな話で暮れて、夫婦にならんでもナジュミ(馴染み)いうて娘と若い衆の間に好きやいができて、手伝うちゃろという愛情の深いことこの上のうて、楽しいもんでございました。
 男と女の間が雑なといやぁ、お大家でも番頭さんと奥さんとが仲がええじゃいうことも、当たり前のように思われちょりました。本当に、今時の人らにゃあ思いも寄らんことでございました。有る部落じゃ、娘と若い衆がどしゃ寝(雑魚寝)じゃと、いうことも平気でございました。

   梅毒の手術 35-10
 前々から話してきました通り、私らの十七、八歳のころは、土地の若い衆も娘も面白う暮らしましたので、一度よそから悪い病気でも貰うてくると、うつって困る者が多うございました。
 この時分は、梅毒をヒエと言うて、このヒエカキ(病持ち)を家で手術するには、私の親類の若い衆が切ってもろうたことがございましたが、皆が患うたもんの手や足をぎっちりと押さえつけちょて、口の中へは、いがらん(叫ばぬ)ように手拭いを詰めちょいて、気の強い者が剃刀《かみそり》で切ったものでございました。手術をした後へは、塩を沸かしちょいて、それを冷まして塗りくったもので、それからは日にいっぺんずつ、この塩湯を塗りくって治したものでございました。
 痛いことでございましつろう。口の中の手拭いが、粉々になっちょた程でしたきに。

                                                                 写  津 室  儿
          


  

1 件のコメント:

  1. 学校中、「しつめる」は採録された桂井氏は、「いじめる?」と標準語試解釈されているようですが、遠い記憶から、まじめに続ける、とか、かかりっきりになる、とかの感じはないかと思われます。近森媼楽しく話されていますね。

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